6章では、王はモルデカイの功績を知り、そして、王は何も知らずに、その場に居合わせたハマンに案をださせました。ハマンは、心の中で、王が栄誉を与えたいものは、自分しかいないと確信していたので、最高の恩賞を考えて提案しました。その結果、皮肉にも、総理大臣のハマンが殺そうとするほどに憎んでいたモルデカイのために、みずから、王服をモルデカイに着せて、王の馬に乗せて、広場に行って、モルデカイの前で、「王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである」と大きな声で叫ばなければならない結果となりました。
今日の7章では、ついに、王とハマンの前で、エステルが嘆願することになります。エステルにとって、その朝、王がモルデカイに対して与えた最高の栄誉、また、ハマンがそれを手助けしなければならなかったことは、神様の御手以外にあり得ないことでしたから、エステルは、主からのしるしを与えられて、今度こそ、嘆願すべき時が来たと確信したに違いありません。そして、エステルは、王にハマンの悪事を、自分自身のこととして、率直に訴えました。その結果、ハマンは、自分がモルデカイを処刑するために、自分の庭に用意した22メートルの柱につけられて、処刑されることになりました。その高い柱のゆえに、シュシャンの町全体に、主のみわざがあらわされました。
今日の個所から教えられることは、ひとつは、高ぶる者は、みずからの高慢によって滅びるということでした。一方、自分の功績を求めず、へりくだったモルデカイは栄誉を受けました。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ書4章6節)。ふたつめは、王妃エステルは、ユダヤ民族の執り成し手として、役割を果たしたことです。エステルの行動の中に、執り成し手としてのひとつの模範を見ることが出来ます。第1に、神のみこころを求め、第2に、大胆に神に近づき、第3に、滅びゆく同胞の状態を自分のこととして神に言い表し、第4に、サタンに立ち向かったことです。私たちも、へりくだるとともに、親、兄弟、子供たち、隣人のために、執り成しの祈り手として役割を果たすことです。目を覚まして祈りましょう。
清宣教師