9章と10章は、ヨブのことばです。前章のビルダテの追及に対して、ヨブは、「まことに、そのとおりであることを私は知っている」と述べて、友人たちの主張について、当然、自分も因果応報の原理を良く知っていると言います。3人の友人たちは、あたかもヨブが因果応報の原理を知らないかのように、手を変え、品を変え、ヨブを因果応報の原理で攻めたててくるのです。しかし、ヨブは、そんなことはよく知っており、それを超えた事態に直面しているので、神に直接、訴えるしか、方法は残されていないと感じているのです。しかし、神と言い争うことは、到底無理なことであることも知っているのです。それでも、ヨブは、この理不尽な出来事について、神の法廷できちんと法廷闘争をしたいと願っているのです。しかし、天地万物を創造された神と言い争うなど、勝ち目はないことを知っているのです。ヨブは、友人たちの因果応報の原理に基づく、徹底した罪の糾弾に対して、自分は無実であり、潔白であることを、天の法廷で神に訴えたいのです。25節~35節では、ヨブは、もはやビルダテに対してではなく、神に直接、語りかけています。ヨブは、天の法廷で自分の潔白を証明したいと思っています。しかし、人間であるヨブが、神と対等に語り合うことは出来ない相談です。そうであるなら、神と自分との間に立って弁護してくれる「仲裁者」(33節)が欲しいと願うのです。この発想が、のちに、「天にある証人」(16章19節~22節)、さらには、「贖い主」(19章25節~27節)へと発展していきます。9章では、四面楚歌の厳しい追及の中で、ヨブは、絶対的に義である神を思い、神ご自身こそ、自分を正しいと認めて下さる唯一のお方であると信じているのです。しかし、そこには、聖なる神と人間の間に立つ「仲裁者」が必要であるという真理へと導かれていくのでした。
今日の聖書箇所から教えられることは、四面楚歌の中で、追い詰められて、天に向かって叫ぶしかないヨブでしたが、神のご計画の中にある「仲裁者」の存在へと導かれていきました。それが、やがて、「贖い主」の存在へと導かれていったのです。神がヨブを放っておかれているようですが、ヨブを信頼して、放っておられるのです。私たちも、神様からの答えが無いからといって、神様は私を見放していると言って自暴自棄になるのではなく、むしろ、神様が自分を信頼しておられる証拠として受け取めて、悟りを求める心が必要なのではないでしょうか。清宣教師