10章1節~7節では、9章に続いて、天における法廷闘争のモチーフが繰り返されています。2節で、「争う」という、法廷用語が用いられています。そして、ヨブは、被造物であるヨブに対して、創造主なる神があたかも対等であるかのように振舞われるのは、おかしいのではないか、と訴えています。最初から争いにならない関係です。あなたは創造主であり、私を滅ぼすことも、ちりに帰すことも自由自在に出来るお方です(8節、9節)。しかし、あなたは、私にいのちと恵みを与えて下さり、わたしを顧みて私の霊を守って下さったお方ではありませんか(12節)、どうか、その恵みと深い配慮をもって、いま、私に接して下さい、と懇願しているのです。なぜ、あなたは私を罰そうとしておられるのですか。私は正しくても、創造主なる神の前には頭をもたげることができません(15節)。少しでも、私が頭をあげようとすると、あなたはさらに怒りをもって私を苦しめられるでしょう。私はどうすればよいのですか。あなたによって、この世に生を受けました。それなのに、ゆえなく、私を敵とみなされるのですか。そうであれば、私はこの世に生れて来なければ良かったのです。もう、私に構わないで下さい(20節)。
今日の聖書箇所から教えられることは、ヨブのいう、神と人の間に立って下さる「仲裁者」がおられなければ、結局、自分が生きている意味を見出すことができず、なぜ、自分は生まれてきたのだろうか、という底知れぬ嘆きの罠に引きずり込まれてしまうのです。しかし、神である御子イエスが人間として生れ、父なる神と人間の間に「仲裁者」として立って下さったので、神と人との間に和解がもたらされ、私たちは、生きる意味を見出す者となったのです。
清宣教師