18章では、シュアハ人ビルダテが、ヨブに2順目の論争を挑みます。やはり、ヨブには悟りがないので話にならない、とヨブを責めることばから始めています(2節)。そして、悪人の行く末について語り始めました。つまり、ヨブがそれに当てはまり、その行く末に進んでいるということを強調するためでした(5節~21節)。つまり、友人のことばは、ヨブへの慰めでも、アドバイスでもなく、もはや一方的な裁きと脅しの文句になっています。ヨブは、ヨブの友人と言われるビルダテたちの冷酷で、無慈悲なことばに、とても深く傷つくのです。11節~15節のことばに至っては、不倶戴天の敵が発するようなことばとなっています。これが友人と自称する人たちから発せられることによって、その苦しみは、千倍にも万倍にもなるのです。
敵が敵として語るとき、それに耐えることは難しくても、でもなんとか耐えることができます。しかし、親友であると自称する人たちから語られる時、その距離は無限にも感じられるのです。これを耐えることができるのは、真に神にのみ信頼を置く人だけです。
今日の聖書箇所から教えられることは、神の選びの器は、このような苦しみのなかに置かれることです。みんなから見捨てられ、つばきをかけられ、ムチ打たれ、十字架で処刑されたお方こそ、真の神のしもべであったことを思い出しましょう。私たちに必要なことは忍耐です。
清宣教師