きょうの21章はヨブのことばですが、2節~6節の前置きのことばを読んで、「おや、いつもと違って落ち着いている!」と感じませんでしたか。「まず、私が語るのを許してくれ。私が語って後、あなたはあざけっても良い 」(3節)。これまでは途中で、友達と話すのを止めて神に語っていましたが、今回は友達とのみ語り合っています。この理由としては、この21章で、友達との論争は2順目の最後になること、それでヨブは友達にしっかり答えておこうとしたことが考えられます。同時に、ヨブは深い苦悩の中で、天におられる証人、贖い主への確信に導かれたことが、ヨブに落ち着きを与えて、友達に対して余裕をもって語ることができるようになったのかも知れません。7節~16節では、ヨブは友人たちが主張する因果応報の原理では説明できない現実の問題を取り上げています。まず、7節~13節では、悪者たちは、現実には、この世で繁栄し、長寿であり、こどもたちにも恵まれ、その家庭も平和であり、財産も豊かであり、彼らは人生を楽しんでいること、14節~16節では、そのような彼らは神を信じることなく、神を侮り、逆らっている。このような現実をどう考えるのか。17節~26節では、ヨブは友人たちの主張に不備があることを指摘します。「幾たび、悪者の灯火が消え、わざわいが彼らの上に下り、神が怒って彼らに滅びを分け与えることか」(17節)、現実の世界では、悪者が栄えており、神による裁きはあるにはあるが、しかし、常にあるわけではないことを指摘します。悪い者が常に神の罰を受け、良いものが常に報いを受けるということを原理とすることはできないし、23節~26節にあるように、安らか死ぬものがあり、苦悩のうちに死ぬものがいるが、だからといって前者が善人であり、後者が悪人であるということではない、両者ともに、同じように、よみにくだることになる。神の裁きは人間には計りがたいものであり、人間が因果応報という原理の中ですべてを解釈できると言うのは人間の傲慢であると、ヨブは主張しました。27節~34節において、ヨブは、友人たちに対して、もっと世界を広く見聞している旅人達に意見を聴くように勧めています(29節)。旅人達は、権力をほしいままにした悪人が、災いにも会わず、とがめられることもなく、葬式すらも盛大なものであると証言するにちがいない(30節~33節)。こうして、ヨブは友人たちに対して、良く現実を見て、現実をみるための原理でなくてはならないと勧告しました。また、友人たちが陥っている失敗は、自分たちの主張をただヨブをやりこめるために考えていること(27節)、そのような態度でヨブを慰めようとしていること(34節)、これは無駄なことだ(34節)と言います。これで2順目の対話が終了しました。
今日の聖書から教えられることは、神は因果応報の原理の中に閉じ込められているお方ではなく、恵みと愛と憐みに満ちたお方であるということです。私たちも、律法ではなく、生ける神の御子の愛と恵みの中に希望を見出すのです。
清宣教師