きょうの22章から、ヨブと友人たちの論争が3巡目に入りました。エリファズがヨブのことばに答えていいます。2節~4節では、エリファズは、たといヨブが潔白であったとしても、神にとってそれがなんになろうか、神は、ヨブのことをいちいち喜んだりするわけがない、と主張しました。これはエリファズ自身の神観です。(エリファズは、ヨブ記の1章と2章における天上の会議を知らないのです)。5節~11節において、エリファズは、ヨブが神に責められているのは、ヨブの悪のせいであるとして、ひとつひとつ、罪状をあげています。今回は、ヨブ自身がどんな悪を行ったか具体的に列挙しています。これはまったく偽りの告発です。エリファズの空想の産物です。因果応報の原理に基づいて類推したことがらを、現実にヨブが犯したものとして列挙しているのです。エリファズは自分を義としているので、自分の犯している過ちにまったく気が付いていないようです。12節~20節において、エリファズは、神は高きところにおられるという神観に立って主張します。神は天におられ、はるかに高い所におられる方であり、人間を超越しておられる方なので、神はひとりひとりに、いちいち、関わりあって下さるお方ではない、ヨブはそのことを分っていない、と考えているのです。ある意味、エリファズは、神を偉大なお方として祭り上げて、自分たちの世界から隔絶したお方としているのです。そして、この世界は因果応報の原理に、機械的に支配されているという世界観をもっているようです。(一方、ヨブは、神のしもべとして、神との間には個人的な交わりと忠誠の関係がある、という世界観をもっています)。なお、13節と14節は、ヨブのことばとして引用しているように見えますが、ヨブのことばそのままの引用ではなく、エリファズが理解したものをヨブのことばとして引用しているものです。ヨブが言いたいことは、神は何もかもご存じだからこそ、語って欲しいという願いです。15節~20節では、結局、ヨブが悪人であるから、神を理解することも、神のこたえを得ることも出来ないのだと断定して、ヨブが悪人の道を歩んでいることに気付くように反省を迫っています。21節~30節において、エリファズは、ヨブに対して勧告しています。自分の罪を認めて神に立ち返り、神の戒めを守るなら、幸せが回復される、そして、あなたは他の人々にも救いをもたらす人になるのだと説得しようとしています。エリファズは、ヨブ自身を見ようとせずに、自分自身の神観、因果応報の世界観によって、すべてを見ていることです。その束縛の中で、神ご自身とヨブを正しく理解することが出来なくなっているのです。エリファズこそ、自分自身の価値観と考えという狭い枠の中に、神を閉じ込めてしまったのです。真の神を見ることが出来ず、理解することが出来なくなってしまったのです。今日の聖書箇所から教えられることは、熱心なクリスチャンが陥る恐れのあるひとつの盲点について指摘しています。熱心になるほど、ある教理や枠の中で、神様のことを理解してしまう恐れがあることです。イエス様は、父なる神様の真の姿を示すために、この世に人の子として来られました。神様は律法ではなく、いのちある人格的な存在なのです。
清宣教師