23章で、ヨブはつねに心の中にあった渇望を述べます。「きょうもまた」ということばです(2節)。毎日、毎日、ヨブの心の中にあったのは、神に会って、みずからの心の中のすべてを神に訴えたいという思いです(3節~5節)。天には仲裁して下さる方がおられるという確信が、必ずや自分のことを聞き入れ、受け入れて下さるに違いないという思いへと発展しています(6節~7節)。それにもかかわらず、神様を求めて、前に進んでも後に進んでも左に進んでも右に進んでも、どんなに探し求めても神様にお会いすることができない(8節~9節)という現実がある、しかし、全知全能なる神様は自分の行く道のすべてを御存じなので(10節)、私の言い分を理解して下さるに違いない(11節、12節)ので、絶望することなく、自分は精一杯生きることが出来るのですと述べています。ヨブは、神様の御計画をすべて知っているわけではないのは確かであり、一方、神には神ご自身のお考えがあり、その通りになされるお方です(13節、14節)。そのため、今、ヨブは自分には計り知ることができない神の御計画の前に、恐れ、おびえているのだと言っています。しかし、たとい、闇の中に置かれても、暗黒の中に閉じこめられることはなく、ヨブは忍耐をもって神を求めていると告白しています(15節~17節)。確かな希望へと導かれています。
今日の聖書箇所から教えられることは、ヨブは、これ以上ないというような試練を経て、その信仰が純金のように精錬されているのが分ります。パウロが記したみことばを思い出します。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません(ローマ書5章3節~5節)。
清宣教師