31章では、ヨブは神の前で、自分自身の潔白を主張します。ヨブは具体的に、ひとつひとつのこと、性的な誘惑に対して(1節~4節)、嘘や欺きについて(5節~8節)、姦淫の罪について(9節~12節)、しもべやはしために対する非人道的な扱いについて(13節~15節)、みなしごややもめなど社会的な弱者に対する無関心の罪について(16節~23節)、金や富、太陽や星などを拝む偶像礼拝の罪について(24節~28節)、自分の敵の不幸を喜ぶ罪について(29節、30節)、自分の罪を隠す誘惑について(33節、34節)、これらすべての罪について、自分は潔白であることを主張しています。そして、35節~40節において、天の法廷で、自分は訴えるべきことはすべて訴え、35節の欄外註(直訳は私のしるし)とあるように、ヨブは、自分の署名をしたと言っています。つまり、神の前に訴えるべきことは、すべて訴え、それに署名したと言っているのです。一方、ヨブを訴える告訴状(35節参照)についても言及しています。控訴状はかえって、自分の潔白を証明することになろう、とヨブは述べています(36節、37節)。
今日の個所の全体をまとめてみると、ヨブは、主のしもべとして、主との契約に反するようなことは何一つしておらず、神の前に自分の義を主張しています。だとすれば、このような災いを与える神は不当なことをしているのではないか、ということになります。しかし、それはあり得ない、とヨブも知っています。ではなぜ、というジレンマが続くのです。
今日の聖書箇所から教えられることは、やはり、天における状況(ヨブ記1章、2章の神とサタンとの間の会話)を知らないことが、主のしもべにとって最大の苦痛をもたらしていることです。私たちの場合は、新約聖書を通して、天の奥義が解き明かされています。そのような視点から、とくにエペソ人への手紙は大事です。時々、エペソ人への手紙を読むことをお勧めします。
清宣教師