ギリシャ語の70人訳聖書やラテン語訳聖書では、詩篇10篇は9篇の続きとして取り扱われています。9篇が異邦人の外国の敵との戦いでの勝利を求める詩篇とするなら、10篇は、イスラエル国内の不信仰者との戦いでの勝利を願う詩篇ということが出来ます。
1節と2節では、神に選ばれた国であるイスラエルの国内において、律法は無視され、不信仰なものが弱い仲間を苦しめている現状があること、それに対して、主はなぜ、裁きをされないのか、彼らを見過ごすことをしないで、彼らの企みの中で、自滅するようにしてほしいと願っています。3節~11節で、あからさまに主を呪う者、「神はいない」と豪語する者、自分の邪魔者はみな吹き飛ばし、子々孫々まで、自分たちは安全だと誇る。彼らの考えていることはいつも、害毒と悪意であり、村はずれや隠れた所で殺人さえ行う。徹底して弱いものをいじめ、虐げ、自分たちの行為は神の目には隠されている、と豪語するのです。12節~13節は、これらの不信仰者の悪行を見過ごすことなく、主が立ち上がり、貧しい者たちのために、実際に行動して、裁きを行なって下さい、と嘆願しています。14節と15節では、主は決して悪者たちの行為を見ておられないのではなく、一部始終を見ておられるお方であり、みなしごを助けるお方です、と告白しています。16節~18節で、かつて、主は約束のカナンの地において、敵を一掃されました。主は、貧しい者、みなしご、虐げられている者たちを守って下さるお方です。その信仰を堅く持ち続けることが出来るように、彼らの心を強めて下さいますように、切にねがっています。一方、不信仰者は、地から生まれた人間であるにもかかわらず、神のように振舞い、みなしごや貧しい者たちを平気で脅かしているのです。しかし、それはまやかしであり、彼らは神の前には、どんなに誇り高ぶっても、地から生まれた人間に過ぎないのです。
今日の聖書箇所から教えられることは、社会的な不正に対して、私たちは無関心であってはいけないこと、貧しい人たちやみなしご、財力や地位がなく虐げられている人たちのために、主が介入して下さり、主の憐みと正義が行われることを求める、執り成し手の責任です。「地から生まれた人間が、もはや、同胞を脅かすことがないように」。この国に、創造主を恐れる心が与えられますように。清宣教師