表題に、「ギテトの調べに合わせて」と記されていますが、70人訳聖書では「ぶどうしぼりの歌」と記されています。「ギテト」が何を意味するかは不明ですが、酒造りの歌の調子と関係があるのではないかと考えられています。著者は、創造の秩序に思いをはせつつ、ゆがめられた現状が回復されることを願っている詩であると思われます。
1節では、創造のみわざの偉大さ、そして、すべての被造物に見られる創造主の叡智と栄光を賛美します。2節では、幼子や乳呑児というような人間の中で最も力のない、弱い存在を通して、創造主の栄光が現されるのが主の御計画です。やがて、彼らの成長を通して、神のことばが語られるようになり、創造主に敵対する者たちを治めるようになるのです。3節では、創世記1章に記されていることを念頭に、天体を造られ、整えられた創造主を賛美しています。4節では、「人の子」とは、アダムの子、つまり、土から造られた、弱く、死ぬべき存在を示しています。無能で弱い存在である人間を創造主なる神は、なおねんごろに扱って下さいます。なんという恵みでしょうか。5節では、神に似せられて造られたアダムは、地上の王として(栄光と誉れの冠をかぶらせられた)、神の代行者としての職務を与えられました。6節では、創造主は、神の造られたすべてのものを人間の手に委ねられました。これが主のみこころでした。7節、8節では、人間の足元に置かれた(人間の管理下におかれた)被造物の例が、身近な物から遠くの物へと列記されています。羊、牛、野の獣、空の鳥、海の魚、海路を通うものなどなどです。人間には、いのちの管理、地上の動物への配慮など、自然界(神の被造物の世界)を正しく治める責任が与えられています。9節では、人間は、創造主から与えられれいる統治の使命を、正しく理解し、創造主の意図に沿って、被造物全体を誠実に治める責任があります。それが、完全に回復する終末の完成を願っての宣言とも受け取れます。詩篇8篇全体を通してのダビデの賛歌は、創造のみわざの秩序、人間の堕落と贖罪による回復、終末における完成が主題となっているとの解釈もなされています。
もう一度、創造主のみわざを思い起こしましょう。私たちは、宇宙に拡がる無数の星々、地球上に生息する無数の生物、原子や分子などの超微小のナノの世界など、全能なる神の圧倒的な力に、ただ、ただ、自分自身の無限小ともいえる存在、無力な存在に気付かされます。しかし、それが主の御心ではなく、私たちは、宇宙に拡がる無数の星々、地球上に生息する無数の生物、原子や分子などの超微小のナノの世界などを治める存在、管理する存在として造られたのです。それが主の御計画です。主の御計画は途方もなく、想像をはるかに超えて信じられないくらいの偉大な計画です。聖書の創造論を宣教する私たちは、この主の御計画を受け留めるため、自分自身の世界観を転換すること(パラダイムシフト)が必要です。私たちは神の子として祈り、神の子として行動するのです。清宣教師