表題の「ムテ・ラベン」の意味は、不明のままです。ところで、この詩篇9篇と10篇は、もともとひとつの詩篇だったと考えられています。それで、10篇には、表題がついておりません。9篇は国々に対する主の裁き、10篇は国内での主の裁きを求める祈りとなっています。
1節と2節は過去において与えられた勝利について主に感謝しています。その勝利は、主の奇蹟的な勝利であったと告白しています。3節と4節は、主がダビデの願いを聞き入れて勝利を与えて下さったことを告白しています。5節~7節では悪は一時的なものであり、主の正義は永続することを記しています。8節の「国民」とは、諸国という意味で、異邦人の国々にも主の正しい裁きが及ぶことを示しています。9節~12節では、主は、虐げられた者の砦であり、虐げられた者を守るお方であり、また、貧しい者の叫びを聞き、貧しい者を守られるお方であることを示しています。13節~16節では、貧しい者や虐げられた者たちを死の門から救い出して下さるのは主であり、一方で、悪人は自分たちの悪に足をとられることを示しています。17節と18節では、悪者どもの運命と貧しい者の運命が対比されています。19節と20節では、ここで用いられている「人間」(ヘブル語でエノーシュ)とは、神の強さに対して、人の弱さを強調することばです。人間は自分の弱さを認めることをしないで、高慢にも勝ち誇ろうとしています。しかし、人間は主の前に、へりくだるときに、初めて、神のご計画を悟ることが出来るのです。ダビデは、それゆえに、「主よ。彼らに恐れをおこさせてください。おのれが、ただ、人間に過ぎないことを、国々に思い知らせてください」と叫び求めています。
今日の聖書箇所から教えられることは、いつの時代でも、社会はふたつの層に分れており、虐げる側と虐げられる側、あるいは、富む者の側と貧しい者の側に分けられているように見えます。国々の間でも、国の中においてもそうです。しかし、主が願っておられるのは、すべての人たちの上に、主の正義と憐みが実行されることです。そのためには、人々が創造主を覚えて、創造主の前にへりくだることが必要です。この国が創造主を知り、創造主を礼拝する民へと変えられますように、祈りましょう。清宣教師