旧約聖書の中でも、最も有名な個所のひとつです。多くの人が暗唱しています。私も暗唱しました。主なる神こそ、私たちのまことの羊飼いです。創世記の時代からすでに、主がイスラエルの羊飼いであると記しています(創世記48章15節、49章24節参照)。羊は、家畜として創造されました(創世記1章26節、4章2節参照)。家畜とは生きていく上に、人間の管理を必要とするものです。ところで、ダビデは、小さい頃から羊飼いとして羊の世話をしていましたから、羊の行動、そして、羊飼いの任務を良く知っていました。ですから、私たちも、この詩篇23篇を読むとき、羊や羊飼いのことを良く理解して読むことが必要です。羊は近視眼であり、目の前の草を見て夢中で食べているうちに、迷子になりやすい家畜です。また、とても臆病な性質を持っています。しかも、イヌやネコとは違い、何かの拍子に転んで両手両足が地面から離れてしまうと自分では起き上がることが出来ません。ライオンやオオカミの餌食となってしまいます。また、放っておくと、お腹にガスがたまり死に至ることがあります。つまり、羊飼いの助けを、絶対、必要とする存在です。羊飼いは朝ごとに、一匹、一匹、羊の名を呼んで連れ出します。そして、羊の群れの先頭に立って、羊を沃野の草地に導きます。羊たちはめいめい、草を思う存分食べます。羊飼いは、ライオンやオオカミの外敵から守るために見張りをしています。そして、時が来ると、一匹、一匹、杖の下を通らせて、点呼します。すべての羊が無事であるのを確認して、泉のほとりに連れて行きます。そこで、水を飲ませます。もし、一匹でもいないことが分ると、その迷子になった一匹を尋ねてどこまでも探しに行きます。そして、羊を見つけたら肩に担いで帰ってきます。では、23篇を味わって下さい。1節~3節は、主が羊を養い導いて下さる姿です。4節~6節は、羊を守り、喜ばせて下さる主の姿を描写しています。
今日の聖書箇所から教えられることは、主は私たちの羊飼いであり、私たちを豊かに養い、敵に対しても圧倒的な守りの中で私たちを満ちたらせてくださることです。羊飼いである主の御手の中にいるかぎり、私たちの人生は、いつくしみと恵みとに満ちたりたものとなります。まことの羊飼いである主イエス様をほめたたえます。イエス様は次のように宣言されました。「わたしは良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネの福音書、10章11節)。清宣教師