ダビデは、その人生の中で、幾度か死を覚悟しなければならない危機的な状況に置かれたことがあります。詩篇31篇は、そのような極度の苦しみと恐れのなかで、主に自分を委ねて、絶体絶命の危機的な状況から救い出された喜びと感謝を歌っています。1節~4節は、救いの祈り。ダビデは、苦難と危険のなかで、いつも捧げる祈りの形式があったようです。今日の詩篇31篇の1節~3節のことばは、同じ詩篇71篇1節~3節とほぼ同じ文言です。私たちも、同じ状況になると、同じ祈りのことばが口から出てくることがあります。ダビデは、まず、主に信頼していること、主ご自身こそ、「わたしの岩、わたしの砦」という確信に基づいて祈っています。5節~8節は、過去における救いの恵み。5節の「私の霊を御手にゆだねます。」とは、イエス様が十字架の上で最後に語られたことばです(ルカの福音書23章46節)。マルチン・ルターも、このことばに看取られて臨終を迎えたと言われています。さて、ダビデはなんども、真実の神が自分を贖い出してくださった過去の出来事を思い出して、主への感謝と共に、主への信頼を告白しています。そして、過去の救いのゆえに、今、自分は喜び楽しむことが出来る、と告白しています。9節~13節は、現在の苦境。ここで再び、現在の苦境とそこからの救いを求めています。「私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです」。これまで親しくしていた隣人や親友からも疑いの目で見られ、外で会う見知らぬ人からも、謀反人のように恐れられている状況でした。まさに、「私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました」と述べているように、世間の人からは、不要物扱い、やっかいもの扱いを受けておりました。一方で、敵たちはダビデのいのちを狙って結束しているのでした。14節~18節は、信仰による訴え。再び、信仰に基づいて、祈ります。「主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』。私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください」。人生の中で起こるすべての出来事を、主の御手の中で起こることととして、完全な信頼を言い表しています。19節~22節は、救いの素晴らしさ。ダビデは大きな感謝と共に、一時的に陥った不信仰をも告白しています。「私はあわてて言いました。『私はあなたの目の前から断たれたのだ』と」。しかし、ダビデの謙虚な反省に対して、主はすぐに、助けをもって応えて下さいました。23節~24節は、救いの原理。ここでは、すべての信仰者に共通する秘訣を述べています。「すべて、主の聖徒たちよ。主を愛しまつれ。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には、きびしく報いをされる」。
今日の聖書箇所から教えられることは、最後の結論にあるように、「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ」ということです。どんな苦難であっても、一時的にあわてることがあるかもしれないが、すべては「主の御手」の中にあるので、主に信頼して、忍耐をもって、雄々しく、主を待ち望むことです。そうすれば、主は時に適って助けて下さいます。
清宣教師