きょうの詩篇は「悔い改めの7つの詩篇」の一つと言われています。6篇に続く、2番目のものです。この詩篇の背景としては、バテシバ事件があると考えられています。ダビデは、恐ろしい罪を犯しましたが、主にあって赦しをいただきました。その恵みの体験を覚えながら、悔い改めの大切なことを伝えています。
1節~2節では、罪を告白し悔い改め、主から罪を赦された者の幸せを歌っています。3節~4節では、罪を告白する前の苦悩を記しています。『黙っていた』とは、神の前に頑なに罪を隠している状態です。「御手」がという表現の中に、悔い改めを迫る主の存在を自覚していることが分ります。5節~7節では、自分自身の罪の告白により体験したこと、そして、それは悔い改めるすべての信仰者の体験であることを宣べています。『大水の濁流のように』とは神の裁きの時にという意味です。神の裁きの時にも、悔い改めたものは、裁きから免れて、堅い岩の上に立つことができるのです。8節では、ダビデが神に代わって、神のことばを伝えています。「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたたがたに目を留めて、助言を与えよう」(8節)。9節~11節では、神の前に、頑なであってはならないこと、10節の「心の痛み」とは、ダビデ自身が経験した良心の痛みです。そして、主に向かう時、その痛みから解放され、罪の赦しという恵みの中で、喜びへと変えられるのです。
今日の聖書個所から教えられることは、今日のみことばのように、「幸いなことよ」で始まり「喜びの声をあげよ」で終わる人生です。ことの発端は、取り返しのつかない恐るべき、重い罪でした。しかし、その最後は、それとは対照的に「喜びの声をあげよ」で閉じています。使徒ヨハネも、自分自身を欺くことなく、その罪を告白するなら、神は真実で正しい方なので、その罪を赦してくださる、と宣言しています(ヨハネの手紙、第1、1章8節、9節参照)。神を愛する者のためには、全能なる神は、すべてのことを益として下さいます。神のもとへ立ち返るなら救われるのです。
清宣教師