今日の個所は、ダビデの罪の悔い改めの詩篇です。悔い改めの詩篇は、全部で7つあります。6、32、38、51、102、130、143篇の7つです。[記念のために]という表題がついていますが、真の悔い改めの詩篇です。最初、呼んでいるうちに、ヨブの体験を思い出しました。ヨブやダビデなど、信仰の先輩たち、偉人たちが、これらの詩を残してくれていることは感謝です。1節~8節は、罪の苦しみ(それに伴う肉体の苦痛)。9節~12節は、人の助けの空しさ。13節~22節は、絶望の中の希望。
「あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため、私の骨には健全なところがありません」(3節)、まさに、自分の生まれつきの醜い肉の性質を変えることが出来ない自分、内側が腐りきっている自分、罪の力の前にどうしようもない自分の姿です。しかし、他の人もまた自己中心的な者であり、自分のことを理解し、助けてくれるものはいないのです。むしろ、敵たちは活気に満ちて強く、私をなじるのです。そのような状況では、ただ、神ご自身に求める以外にないのです。「主よ。わが神、主よ。」(15節)、「主よ。わが神よ」(21節)、「主よ。私の救いよ」(22節)とひたすら主を呼び求める以外にないのです。ここで、15節のヘブル語本文では、「主(ヤハウェ)よ。わが神(エロハイ)、主(アドナイ)よ」と呼びかけています。神様の3通りの御名が記されています。ダビデは何とかして神様の応答を得たいのです。そして、「私を見捨てないで」(21節前半)、「私から遠く離れないで」(21節後半)、「急いで私を助けて」(22節)と叫んでいます。そして、最後に、「私の救いよ。」という結論に達しています。ダビデの切実な悔い改めの姿勢が、強く伝わってきます。
今日の聖書箇所から教えられることは、試練を通して、私たちの醜い罪の性質、肉の性質を指摘された時は、素直に、それを認めて、主の前に悔い改めることです。私たちは、順風満帆のときは、案外、自分の肉の性質や自己中心の罪に気付かないものです。逆境になると、自分の奥底に隠された肉や罪の性質が現われてきます。それを隠さないで、主の前に、素直に悔い改めることです。私たちも、「主よ。わたしの救いよ」と、ダビデと共に告白しましょう。
清宣教師