今日の詩篇40篇は、注解書によれば、「私の耳は開かれた」という題目をつけています。そして、「耳を開かれる」ということが信仰の服従の基礎であることをこの詩篇は教えている、と記しています。1度だけでなく、2度読んでも、なかなか、注解書のような結論には達しませんでした。3度読んでみたら、微かに、分るような気がしました。13節以降は、心の耳を開かれた者が主に従う喜びを体験し、それを聞く者も主に従う者となって真の喜びを体験するように願うダビデの証言の歌であると、注解書は述べています。
主は、私たちの叫びに耳を傾けて下さる方であると同時に、私たちの心の耳を開き、悟りを与えて下さるお方であり、そして、みこころを行うことを喜びとするという境地に導いて下さるお方です。
以上ですが、今日の個所は、私には全体の流れを追うのが、難しく、注解書による解釈を、そのまま、受け取る以外にありませんでした。ただ、全体の流れを理解することは困難でしたが、それぞれのことば(1~2節、5~6節、8節、16節など)については、共感することができました。そして、「あなたは私の耳を開いて下さいました」という境地には、私はまだ達していないことを痛感させられました。
6年前のことですが、1日1章の愛読者の方から、詩篇40篇の1日1章について、次のようなメールが送られてきました。「ハレルヤ! いつもありがとうございます。今の私の乾いた心に、詩篇はすっと染み入る清水のようで、このところ癒されています。詩篇40篇の最終17節のみ言葉は、まさしく今の私の告白です。」とありました。1日1章のみことばの解き明かしを超えて、聖霊なる神が、おひとりひとりに直接、感動を与えて下さっていることを再確認しました。主よ。どうぞ、私の心の耳をも開いて下さい。悟りを与えて下さい。
清宣教師