詩篇43篇は、おそらく、公けの礼拝から引き離されていた者が、具体的に神殿での礼拝に連れ戻されることを願い、祈っている、と考えられています。1節と2節は神の弁護を求める祈りです。3節と4節は公けの礼拝を願う祈りです。5節は、信仰の勝利の歌となっています。
4節の「神の祭壇」とは、神に近づく手段としていけにえを捧げるところです。そこは私が最も喜びとするところです。公同の礼拝で、主を喜び、賛美し、竪琴に合わせて、ほめたたえたい、という強い願いを表明しています。そして、最後に、「私の神よ。」(4節)「私の神を」(5節)ということばで、勝利の未来を先取りした、待ち望みの信仰の告白をして閉じています。昨日の詩篇42篇に続き、信仰者の本質である、待ち望みの信仰の姿勢により、この苦難に勝利しています。さて、主の晩餐(聖餐式)では、パンとブドウ液が配られます。それは私たちの飢えや渇きを満たすために食べたり、飲んだりするのではありません。あの小さなパン切れ、それに、ブドウ液の入った小さな杯です。私たちは、神様の臨在を覚えつつ、かつて来られた方であり、再び来られるお方として、イエス様のことを覚えるのです。私たちの心に触れられましたが、いまだに、悲しみのすべてを取り去ってはいない方がそこにおられると実感しつつ、ほんのわずかのパンを食べ、ほんの少しのブドウ液を飲むのです。ですから、私たちが、パンとブドウ液を共に分かち合う時は、いまだに途上にある者たちとして、すなわち、そのお方に再びお会いする時まで忍耐をもって待ち望みながら互いに支え合う者たちとして、それを行うのです。そのとき、私たちの心は喜びに満たされます。そして、その喜びを私たちから奪うものはいません。いつでも、私たちの心は、待ち望みの信仰によって裏打ちされる必要があります。そうでないと、容易に失望し、無感動、無気力に陥ってしまいます。私たちは、この地上の生涯を終えて、御国に入る時、まっさきに、主イエス様によって迎えられます。真っ先に出迎えて下さるのは、主イエス様です。私たちは主の晩餐を通して、主の死を告げ知らせ、やがて、再び来られるお方として、再臨の主を待ち望む信仰の姿勢を表明するのです。コリント人への手紙、第1、11章26節「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」。清宣教師