この詩篇63篇は、わが子アブシャロムの謀反により、エルサレムでの優雅な生活を追われて、荒野(砂漠)での不自由な生活の中での出来事です。しかし、かえって、心の中は自由にされたのです。今エルサレムではなく、荒野(砂漠)にいるにもかかわらず、あたかもあのエルサレムの聖所で主を仰ぎ見るように、主を仰ぎみることが出来たのです。主の栄光と臨在のある所、そこが聖所となるのです。主の臨在の祝福のゆえに、ダビデは両手を上げて、主の御名を賛美し、祈りました。喜びに満ちあふれて賛美するのです。ところで、新約聖書の中で、主イエス様は、あえて、人里離れた荒野に出かけて、主との交わりの時間を過ごされたことが記されています。私たちも、教会で主日礼拝をすることが出来る幸いなときだけでなく、教会ではなく、仕事の合間の荒野(砂漠)において礼拝しなければならない時もあります。あるいは、孤独の荒野(砂漠)において礼拝しなければならない時もあります。病院の荒野(砂漠)で礼拝しなければならない時もあります。そんなときにも、主の臨在と祝福があります。荒野であれ、どこであれ、「霊とまこと」をもって礼拝する、その時が来ています。「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。」(1節)「水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私も身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」(2節)「私は、あなたの力を栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。」(3節)。いま、あなたがいるところで、あなたの心が主に向けられますように。荒野(砂漠)の中で、主の力と栄光を見ることが出来ますように。主の喜びが、きょうも、あなたのうえに、豊かに注がれますように。ダビデの賛美は、時を超えて、私たちの心の渇きを代弁しています。この詩が歌われて3千年を経過しました。しかし、3千年のギャップを感じません。ですから、ミクタムの賛美集の中に、この詩篇63篇から4曲も引用されています。
今日の聖書箇所から教えられることは、3千年の時を越えて共通する、神への信仰者の飢え渇きです。ダビデも、エリヤも、ダニエルも、サムエルもみな、人生の砂漠の中で、激しい霊の飢え渇きを体験しました。きょう、主よ。あなたを切に求めます。あなたを切に慕い求めます。
清宣教師