今日は詩篇94篇です。大きく分けると、ふたつに分けられます。前半(1節~15節)は、民衆の嘆き。後半(16節~23節)は、個人の嘆きです。ます、前半ですが、1節~7節は、不法がはびこる中で、正当な処置を求める嘆願です。自分で復讐するのではなく、神に正当な裁きを求めています。悪い指導者たちが、神の民を打ち砕き、弱い立場にあるやもめや在留異国人たちのいのちを踏みにじっているのです。しかも、彼らは、「主は見ることも、気付くこともできない」といって、主を侮っているのです(5節~7節)。しかし、それこそ、愚かな者の主張です。人間のために耳を備えて下さったお方、また、見るための目を備えて下さったお方が、どうして、聞くことも見ることも出来ない、などど考えるのだろうか。目や耳を設計されたお方は、当然、見ることも、聞くことも出来るお方です。そして、そのお方は、私たちとは異なり、私たちの思いや心までも、見ることができるお方なのです(8節~11節)。だから、不法を行う指導者たちが、大言壮語したとしても、必ず、主による裁きがあり、主はご自分の民を回復し正義を回復して下さるのです(9節~15節)。後半(16節~23節)は、まず、疑問をなげかけています。「だれが、私のために、悪を行う者に向かって立ち上がるのでしょうか。だれが、私のために、不法を行う者に向かって堅く立つのでしょうか。」。17節の「沈黙」とは死者の国。18節の「私の足がよろけています」とは、生活全体が崩壊する様子。19節は、18節と同じ意味です。20節と21節は、合法的に悪を企てる議会が、神を無視して事を進め、弱者の権利を奪いとる有様、それはイエス様を告発して、死刑に定めたユダヤの国会(サンヘドリン)を思い起こさせます。しかし、どんな悪条件の中でも、主は「とりで」となり、「避け所の岩」となってくださいます(22節)。そして、ついには、主が悪しき指導者を追放し、正義を回復されます(23節)。
今日の聖書箇所から教えられることは、人生の災いの日であっても、主は平安をあたえてくださるお方です(12節)。この世界は産みの苦しみの中にあります。たとい今、あらゆる不法がはびこっていたとしても、すべての不法が取り去られ、まったき正義が支配する世界が来ます。「みこころが天において成るように、この地において成りますように。御国が来ますように。」
清宣教師