今日の詩篇98篇は、全世界の創造主であり、支配者である主に対する賛美と喜びを捧げる賛歌です。時代背景としては、バビロン捕囚からの解放に対する賛歌です。イスラエルの救いは、歴史の中で全世界に対する神の救いと義を表すためのものです。「新しい歌を主に歌え」、神様のわざは、日ごとに新しく、その御業に対する賛美も新しい感動の中で歌われるのがふさわしいです。「主は奇しいわざをなさった」、神様はご自分の力でイスラエルの民をバビロンの地から救い出されました。イスラエルの主が王として全地を支配される方であることを認めて、全地も、海も、世界も、その中に住むものも、喜びをもって王を迎えるように勧めています。このように、バビロンからの救いを通して、この詩篇の作者は、全世界の救いへと心を向け、主の最後の審判に対する信仰の告白をしています。
ところで、詩篇は、祈りの型に関して多くのことを教えてくれます。聖書の他の書は、おもに神のことばを私たちに伝えているのに対して、詩篇は私たちの言葉を神に返す手本です。ユダヤ人も、イエス様も、初代教会の人たちも、詩篇を祈りの書として用いてきました。150篇ある詩篇は、一語一句そのまま祈ることも出来ます。あるいは、祈りのパターンとして、自分のことばで祈ることも出来ます。
今日の聖書箇所から教えられることは、私たちが経験する、ありとあらゆる感情――喜び、感謝、フラストレーション、怒り、妬み、嘆き、罪悪感、赦し、信頼、希望――などを、素直に、詩篇の作者のように神の前に祈って良いのだということです。あるひとが、詩篇のことを『魂の汚水処理場』と表現しています。私たちが持っているあらゆる感情。妬みや憎しみなどの汚い感情をすべて含めて、詩篇の祈りと共に洗い流すことが出来るからです。詩篇は、神に正直な言葉で表現することを教えてくれます。心のうちにあることを祈るのは祈りの出発点です。きょう、なにか、心の奥底にたまっている感情があるなら、正直に、主の前に吐き出しましょう。主は、そのことばを聞いて、私たちの心の悩みに付き合ってくださいます。天の御父は、私たちが弱いものであり、不完全なものであることを良くご存じです。私たちはただ、天の御父の前に、泥んこ遊びをして、着物を台無しにしてしまった幼子のように、天の父の前に、ありのままの姿で近づくときに、喜んで私たちを抱きしめ、そして、聖霊の清い水で洗ってくださいます。清宣教師