今日の詩篇101篇は、「王の詩篇」として分類されています。ダビデの子孫が王位を継承する場合、その個人生活と国家統治のありかたを教えています。つまり、正しい政治・指導は、王自身の敬虔できよい生活を背景としてはじめて可能となる、という信念に基づいて書かれています。1節~4節:個人生活のあり方を巡る黙想。5節~8節:国家統治のあり方を巡る黙想。1節で主の偉大さを賛美します。主の統治のあり方こそ、王の統治の模範だからです。2節の「自分の家の中」とは、宮殿、神殿あるいは国内を意味すると思われます。3節と4節では、日常生活の中で悪を退ける決意が述べられています。3節の「卑しいこと」とは、偶像崇拝などを意味しています。5節の「滅ぼします」とは、必ずしも殺すということではなく、訓戒によって悪を除くことも含まれます。6節には、正しい統治のあり方が述べられています。7節の「欺く者」とか「偽りを語る者」とは、律法にさからう者たちのことです。8節の「朝ごとに」つまり、日々、目指していることは、神に喜ばれるところの社会を築くことです。
今日の聖書箇所から教えられることは、正しい行動は、正しい考え方から出てくるということです。この世の価値観である、ヒューマニズム(人間中心主義)の土台に立つなら、正しい行動は出てきません。ヒューマニズムは、進化論、無神論、唯物論などを土台としています。そして、人生の尺度として、成功とか、自己実現などをもとに、つねに比較の世界に私たちを引きずり込み、また、比較の価値観の奴隷としています。確かに、比較の世界では、弱者に打ち勝ったという勝利の喜び、達成感が得られると思います。しかし、この比較の世界観は、この世界を創造された神様のみこころ、神様の願いとは全く異なります。創造主は、幼い子供たち、貧しい者、虐げられている者たち、無力な者、みなしご、やもめ、病のなかにある者たちに目を留めておられます。世の中にあって誇るものを持っている者ではなく、何も持たないもの、無力なものに、心を留められるお方です。聖書の創造論の土台に立つことが、正しい行動の源泉です。今日も、正しい土台に立って考える習慣を身につけようと思います。再臨の主イエスこそ、まことの王の王として、来るべき世界を永遠に治めてくださるお方なのです。ハレルヤ、私たち全人類を救うために、最も貧しくなられた主イエス様に、永久に栄光がありますように。清宣教師