詩篇は主イエスにとっても、またユダヤ人にとっても、祈りの書として用いられてきました。150篇ある詩篇は一語一句そのまま祈ることも、祈りのパターンとして自分のことばに置き換えて祈ることも出来ます。詩篇は、神に正直な言葉で表現することを教えてくれます。祈りは私たちの心を神と共有することであり、神も私たちの心に関心をもっておられます。今日の詩篇109篇は、まさにそのような詩篇の一つであると感じます。悪人への報復を願う祈りです。確かに私たちのうちにある願いを、この詩篇の作者が祈り求めているといえます。ただ、私たちの場合には、イエス様の教えから判断して、このようにお祈りして良いのかどうか、迷ってしまいます。まさに、悪に悪をもって報いず、侮辱に対して侮辱をもって報いず、敵を愛しなさいという教えがあるからです。しかし、この詩篇が、私たちの手に残されていることも意味があると信じます。魂の願いが浄化され、私たちの霊が、イエス様の教えに向かうためのひとつのステップと考えられます。
さて、詩篇109篇は、4つの部分からなっています。1節―5節は、無慈悲な敵に対抗して助けを求める祈り。6節―20節は、敵の無慈悲な行為に報復を祈る。21節―25節は、助けを求める祈り。26節―31節は、主が貧しい者や弱い者の味方であることを確信し、感謝する。全体として、個人の嘆きの形式をとっています。しかし、30節に「多くの人々の真ん中で、賛美します」と記されているので、公けの信仰の告白の歌ともなっています。
私たちも、現実の人間関係の中で、侮辱や傷をうけます。そこに怒りや悲しみや嘆きが生じます。あるいは、それを制御できない罪悪感などが湧いてきます。しかし、詩篇を読むときに、共感があり、浄化があり、霊の原点に容易に戻ることが出来ます。主に委ねる決断が与えられます。きょうも、途方もなく偉大な創造主を礼拝しましょう。どこまで~~~も、どこまで~~も続く、太平洋の海原を想像しましょう。私たちの怒りや悲しみが深くても、私たちの涙がこの太平洋を満たすのはいつでしょうか? 決してありえないですね。しかし、全人類の頑なさを嘆くイエス様の涙は、この太平洋の海原も及ばないほどのものです。涙という表現を愛という表現に置き換えることも出来ます。キリストの苦難には、絶対的に不可能なものを可能にする神の神秘が含まれています。それは、絶対的な主権をもつ卓越した創造主、絶対に聖であり、義であり、すべての思いと動機と行動において完全であられる神の御子が、罪に汚れ、麻痺し、思いと行いと性格そのものによって、赦しと義なる行為を妨げている罪深い人間のために、みずから人間となられて贖いを成し遂げられるという神秘でした。そこには、途方もない苦悩、犠牲がありました。
今日の聖書箇所から教えられることは、神の子とされた私たちクリスチャンですが、この地上の生涯の中では、もろもろの葛藤があります。なかなか変わらない自分の姿があります。しかし、私たちの唯一の希望は、私たちを遙かに超えた偉大な存在である、救い主がおられて、私たちを変えて下さることです。私たちはキリストにあって、イエスのように、愛のある者へと変えられるのです。清宣教師