きょうは、詩篇130篇です。1節、「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。」との叫びから始まります。この詩篇の作者は、深い淵、探りえない、底知れぬ深き淵の中に投げ込まれています。その原因は、罪にあると自覚しています。2節~4節、「主よ。私の声を聞いてください。私の願いに耳を傾けてください。・・・」、自分の罪を悔い改めて、信仰によって、罪の赦しを求めます。5節~6節、「私は主を待ち望みます。」、「神は罪を見られるが、罪を赦されるお方です。」だから、主を待ち望むのです。深い淵にいるのは、神から離れている自分の罪の故です。だから、そこから救い出すことが出来るのは、主ご自身です。「主を待ち望む」、それは、具体的に、主のことばを待ち望むことです。7節~8節、「イスラエルよ。主を待て。」と同胞に呼びかけます。自分は罪を悔い改めて深い淵から救い出されるという体験をしました。その喜びを、同胞に分かち合っています。「主はすべての不義からイスラエルを贖いだされる。」・・・今日の詩篇は、「悔い改めの7つの詩篇のひとつ(6番目)」と言われています。マルチン・ルターは、130篇をパウロ的詩篇と呼びました。なぜなら、罪から始まり、罪の赦し、将来の希望へと展開しているからです。この詩篇の作者は、深い淵から神を求めて祈っています。神は罪を見られますが、罪を赦されるお方です。神の義は、愛によって包まれているからです。神は神を待ち望む者に夜明けの光を与えられます。神の民には、罪の贖い、主の恵みがあります。
今日の聖書箇所から教えられることは、私たちクリスチャンもみな、同じように、深い淵から叫んだことがあるに違いありません。深い淵の底から、罪の深い自覚の中から、深い落ち込みの中から、主のみことばによって引き上げられたことがあるに違いありません。あるいは、いま、そのような状況にあるかも知れません。しかし、私たちの主は、真実をもって、私たちを受け入れてくださり、底知れぬ深い淵から、羊飼いの様に、私たちを肩にかついで救い出してくださるお方です。ハレルヤ。
清宣教師