ヨブ記は「苦しみ」、詩篇は「賛美」、伝道者の書は「空」、雅歌は「愛」がテーマとなっています。箴言は、「神の知恵」がテーマとなっています。「箴言」というヘブル語の言語は「マーシャール」であり、「ことわざ」という意味をもっています。教訓という意味で「格言」と訳される場合もあります。一方、主イエス様は、復活された後、エマオの途上において、「旧約聖書全体は、ご自分について記しているのだ」と弟子たちに解き明かされました(ルカの福音書24章27節、44節参照)。そういえば、新約聖書のコロサイ2章3節では、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」と記されています。また、コリント人への手紙、第1、1章24節と30節では、「キリストは神の力、神の知恵なのです。」、「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」と記されています。確かに、箴言もまた、イエス・キリストを証ししているのです。
1節~3節では、知恵について記されています。箴言に登場する「知恵」のヘブル語の原語は、「ホクマー」で、その意味は、単なる知識ではなく、神の御旨にかなった生活を送らせるための知恵を意味しています。「知恵」と「訓戒」がほぼ同じ意味で使われています。これは単なるアドバイスではなく、「神の与える訓練」であり、「神の前に自制する生活態度」を含んでいます。4節~5節では、箴言は誰によって学ばれるべきかについて記しています。それは、わきまえのない者たちです。同時に、知恵ある者にとっても、さらに、知恵を得るために有効です。6節では、この知恵とは、人間の一般的な理解を超えるものであり、比喩やなぞとして、神の奥義が秘められているという側面を示しています。7節に、「主を恐れることは知識の初めである」と記されていますが、これが箴言全体の中心的な主題です。「恐れる」とは単なる恐怖の感情ではなく、自分自身を超えた全知全能なる神、創造主なる神に対する尊敬、畏怖、愛、感謝、賛美の入り混じった被造物としての人間の恐れ(昔は、畏れという漢字を用いていました)です。
8節~19節は、若者へのことばです。父の訓戒であり、母の教えです。父や母という表現を用いて、「家族」としての教育という立場が現されています。それはイスラエルの伝統であり、また、創世の時代からの神のご計画でもあります。それは、また、キリストの教会における神の家族へと継承されています。つまり、「家族」としての学びは、聖書全体を通じての神のご計画のあらわれです。
ところで、エレミヤ書18章18節を見ると、3種類の人々が記されています。知恵ある者(はかりごと)、律法(祭司)、預言者(ことば)です。ユダヤ人にとって、祭司の原型はモーセ、律法の原型は十戒、知恵ある者の原型はソロモンでした。箴言1章1節には、ソロモンの箴言と表題がつけられています。ユダヤ人にとって知恵ある者は、ソロモンなので、この表題がつけられました。しかし、ソロモンが作ったものではないものも含まれています。列王記、第1、4章29節、30節を読むと、ソロモンは、3千の箴言を作ったと言われています。(続く)