きょうの11章も、10章に続いて、反意的パラレリズムの手法によって、ほぼ統一されています。1節の「欺きのはかりは主に忌み嫌われる」と「正しいおもりは主に喜ばれる」では、「欺きのはかり」と「正しいおもり」が対比され、「主に忌み嫌われる」と「「主に喜ばれる」が対比されています。同じことを表と裏から表現しています。商売をするとき、正しい秤をもちいることは、主のみこころです。私たちにとっても日常茶飯事の出来事の中で、同じことが言えます。自分の場合は、間違ったことに関して、言い訳が山ほどあり、相手の場合は、その言い訳はすべて屁理屈に見えてくるものです。自分にはやさしく、相手には厳しいものです。しかも、それに気づくことは滅多になく、自分には厳しく、相手にはやさしい、と真逆のことを本気で信じている人が多いのです。自分には厳しく、他人には優しいと思っている人ほど、自分のはかりと相手へのおもりが異なっているのです。7節は、同義的パラレリズムになっています。「悪者が死ぬとき、その期待は失せ」と[邪悪な者たちの望みもまた消えうせる]とあります。同じことを、重ねて表現する内容になっています。悪者はこの世では繁栄しているように見えるので、追従する場合がありますが、しかし、彼らもまた死ぬのです。悪者に期待してはいけない、という警告のことばです。私たちの生活の中でも、この世的なやり方に望みをおいて追従してしまう恐れがあります。しかし、それは主のみこころではありません。その望みは消えてしまうのです。主のみこころにかなう正しい生き方こそ、祝福をいただく生き方です。8節の実例は、ダビデ、ダニエル、モルデカイなどに見ることが出来ます。いずれも、この世の権力者が彼らを横暴にも苦しめ、いのちをもねらうのですが、主の介入により、正しい者が救われ、サウルやハマンなどの悪者たちが、自分たちの墓穴に陥って滅びました。私たちもまた、不当な苦しみにあうことがあります。しかしその時は、主に信頼して待つことです。自分で復讐するのではなく、主に信頼して待つとき、主が介入して下さり、正しい解決を与えて下さいます。24節は、「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」と記されています。以前、田中武司兄が、第3礼拝でメッセージされたことがありますが、「税金の支払いを惜しんで、脱税して、成長した会社はない。むしろ、正しく税金を支払って、大きく成長している会社がある。」というお話しを思い出しました。
今日の聖書箇所24節から教えられることは、クリスチャンの生計もまた、ある先生がメッセージされたように、「献金を惜しんで、その人の家計が祝福されたという話は聞いたことがありません。むしろ、什一献金を実行して、家計が大いに祝福されたという証はたくさん聞いたことがあります。」ということになります。
清宣教師