6章では、4つの勧告がなされています。第1に、保証人となることの危険性。第2に、怠惰になることの危険性について。第3に、紛争の種をまくことの危険性について。第4に、神の憎まれる7つの危険性など、です。
1節~5節は、軽々しく、保証人となることの危険性です。軽々しく保証人となる危険性については、繰り返し、警告しています(箴言11章15節、17章18節、20章16節、22章26節以下、27章13節など)。つまり、人間の場合、本質的に、他人の保証をするような力を持ち合わせていないことを良く考えて、決断する必要があるということです。ただし、福音書では、誰であっても求める人には、敵であっても、快く与えるように勧めています。つまり、自分が持っていないもので保証するのではなく、今、自分が持っているもので解決するように勧めているのではないかと思われます。6節~11節ですが、新約聖書でも、自分の手で働いて生活するように勧めています。一方で、明日の事を心配して貯めこんでしまう、行き過ぎた心配性についても、イエス様は警告しています。箴言30章7節~9節に記されているように、主が定められた食物で養っていただくことが、健全な生き方です。12節~15節では、「よこしまな者」とは、「曲がったことを言って歩き回る、この世的な者」です。若者にへつらう指導者、あるいは、自分を隠しておもしろおかしく、フェイクニュースを発信するような者たちです。16節~19節では、「目」と「舌」と「手」と「心」と「足」など、私たち人間の、それぞれの器官があげられています。その出発点は、「高ぶり(高慢)」です。創造主の作品である同胞を見下すことこそ、創造主なる神が忌み嫌われることです。20節~35節までは、人妻の誘惑、遊女の誘惑などに負けてしまうことがないようにとの警告です。盗みの罪なら賠償金を支払うことで解決されるが、姦淫の罪は、どんなものによっても償うことが出来ないことを示しています(35節参照)。そして、7章へと姦淫の罪に対する警告が続いています。
今日の聖書箇所から教えられることは、性的な罪の重さです。現代は、ネットやビデオなどの媒体を通して性的刺激をあおるものが増えています。私たちの社会は、撒いた種を刈り取り、不倫や性犯罪も増えています。祈りの防御が必要です。祈りましょう。清宣教師