箴言10章1節~22章16節までの部分は、箴言の中心部分になっており、約370の格言が収録されています。ここでは、パラレリズム(対句)の手法がとられており、10章から15章では、反意的パラレリズムが多く、16章以下は、同義的パラレリズムが多いようです。
箴言の特徴のひとつとして、パラレリズムという表現方法を多用することにより、言いたいことを明確化していることが挙げられます。一応、大事なことなので言及しておきます。復習になりますが、同義的パラレリズムとは、二つの行の間あるいは、1行の前半と後半で思想内容が同義である場合です。例えば、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(16章18節)などが、その典型的な例です。1行目で「高ぶり」と表現したものを、2行目では「心の高慢」と表現しています。それがもたらす結果について、1行目では「破滅」と表現したものを、2行目では「倒れ」と表現しています。1行目で言いたいことを、2行目で、別の表現で、同じ意味内容を表現する方法です。これが同義的なパラレリズムと言います。次に、反意的パラレリズムとは、前半と後半の思想を対比させることによって、思想がより明白になるものです。例えば、今日の10章は、ほとんどの節がそうですが、1節の「知恵のある子は父を喜ばせる、愚かな子は母の悲しみである」がそうです。4節の「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。」もそうです。前半で言ったことを、逆の面から表現することにより、全体として、言いたいことを明白にしています。5節、6節、7節、8節、9節も、明確な反意的パラレリズムです。10節の場合は、前半と後半は、同義的なパラレリズムとなっています。それにしても、ひとつ、ひとつ、良く見ると、深い教えであり、なるほどと、心当たりがあります。注解は、これくらいにしますので、ひとつひとつ、味わって下さい。
今日の聖書箇所の中で、私なりに心を惹かれた個所は、「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない(22節)」という個所です。私たちは、汗水流して働くと、つい、自分の力で富を得たと考えてしまいます。しかし、イエス様がブドウ園の例え話(マタイの福音書20章1節~16節)を通して、すべては神の恵みに拠ることを教えています。
清宣教師