今日の12章も、1節~27節まで、前半と後半が対比される形となっており、反意的パラレリズムが続いてます。
「訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ」(1節):訓戒を愛する人は、非常に少ないように思います。しかし、叱責を憎む者は多いと思います。まさに、いのちに至る道は細いように思います。訓戒の中にいのちが隠されています。「しっかりした妻は夫の冠」(4節):気品があり有能な妻が周囲の人の信用を得て、夫の評判を高めることを表現しています。政治家の奥さんは、まさに、このような役割を求められていますが、普通の主婦の場合でも、ご主人の引き立て役をする奥さんは好感をもたれ、ご主人をこき下ろす奥さんは、反感を持たれる傾向にあると思われます。「正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る」(10節):家畜にすら配慮することは、創造主のみこころを反映するものです(申命記11章15節参照)。「自分の畑を耕す者は食料に飽き足り」(11節):主から与えられた自分の畑を良く管理するなら、豊かな収穫を得るものです。他の箴言の個所では、他人の畑ではなく、自分の畑を耕すようにとの忠告がなされています。「人はその口の実によって良いものに満ち足りる」(14節):自分の口から出ることばが良いものであれば、良いものを刈り取るのです。すべてのことに感謝しましょう。「今日の感謝が、感謝の人生を築く」です。「心に不安のある人は沈み、親切な言葉は人を喜ばす」(25節):思い煩いは、心の中にあってその人の心の目を内側に向けさせ、うつ的な症状へと沈ませます。しかし、ほかの人からの親切な言葉が、その人の心に喜びをもたらし、引き上げてくれるのです。最後の28節だけは、前半の意味を後半がさらに補強する形の同義的パラレリズムになっています。
今日の聖書箇所から教えられることは、おそらく、ひとりひとり、どこかの節に、心に響くことばがあったことと思います。自分がいま置かれているところ、あるいは、同じ人でも、ライフサイクルのどの時点にあるかで、心に響くことばが変わるのではないかと思います。私自身、青年時代と比べると、老年時代の今では、大分、変わりました。ただ、青年時代に読んでいた箴言を読むと心が若返るような気がいたします。
清宣教師