「知恵のある女は自分の家を建て、愚かな女は自分の手でこれをこわす。」(1節)。これは原文通りに訳すと、「女の知恵は自分の家を建てる」となります。定礎式の時に、この前半のみことばを引用された家庭は幸いです。もし後半を引用されたらこわいですね。
「牛がいなければ飼い葉おけはきれいだ。しかし、牛の力によって収穫は多くなる」(14節)ということばですが、かつて、西多賀教会の人数が増えてきたときに起こった出来事でした。人数が増えるとどうしても、会堂の中にスリッパが散乱したり、イスが片付けられていなかったり、苦情が出始めました。そのとき、示されたみことばです。懐かしいみことばです。
「心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない。」(10節)。なかなか、自分の苦しみまで理解して下さる方はないように思います。しかし、その苦しみが過ぎ去り、主から解決をいただいたときの喜びにあずかるのは、自分自身です。
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(12節)。まさに、イエス様がいわれたように、滅びに至る道は広く、そこを歩む人は多いのです。大勢の人が歩んでいるからといって、正しいとは限らないのです。むしろ、間違っている可能性が大きいのです。
「自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。」(21節)。人をさげすむことで、自分を高めている人がいます。でも、それは神の御前においては、みえみえの偽りです。
「知恵のある者の冠はその知恵。愚かな者のかぶり物はその愚かさ。」(24節)。知恵にしても、愚かさにしても、結局は、人の前で明らかになります。知恵も、愚かさも、他人に隠そうとしても、隠しきれないのです。
「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。」(29節)。これに続いて、「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」(30節)とあります。怒りや激情は、交感神経や副交感神経を刺激して、心のバランスを奪うものです。穏やかな心こそ、健康な体を造り上げる土台です。
「寄るべのない者を虐げる者は、自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。」(31節)のみことばは、「造り主を敬う教会」である、西多賀教会にとって大事な指針となるみことばです。
今日の聖書箇所から教えられることは、創造主を敬うという信仰の告白は、貧しい人の現状を理解して支援するという具体的な行動を伴うものであると教えられます。ホームレスの人や被災者の方に対する支援は、創造主を告白する信仰の表れです。西多賀教会においても、ますます、この分野での働きが拡大することを期待します。
清宣教師