今日の15章では、やはり、反意的パラレリズムが、大部分を占めています。1節では、「柔らかな答え」と「激しいことば」が対比されており、「憤りを静める」と「怒りを引き起こす」が対比されています。しかし、10節は、同義的パラレリズムが用いられています。「正しい道を捨てる者」と「叱責を憎む者」とは同義です。「厳しいこらしめがある」と「死に至る」も同義です。12節や30節も同義的パラレリズムです。
以前、西多賀教会に出席されていたO兄弟(客会員)は、いつも、「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には、毎日が宴会である」(15章15節)のみことばを引用して、「毎日が宴会です」と証しされていました。そのことも懐かしく思い起こされます。
また、栃木県の日光のオリーブの里の近くに「毎日がクリスマス」という名称の高齢者向けの介護施設がありました。主の贖いのみわざを心から悟るなら、毎日が楽しみであり、宴会の日となるに違いありません。さて、「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎みあうのにまさる。」(15章17節)のみことばも、新しい家庭をスタートした兄姉によって、よく引用されるみことばです。愛のある家庭は、何物にもまさる祝福です。
ところが、互いに愛し合ってスタートした家庭が、やがて、互いに憎み合うことになってしまうのは、パラドックスです。いつのまにか、肥えた牛を求めて、最も大事なことからお互いに少しずつ、離れてしまい、気付いたときには、肥えた牛はあるが、愛が冷えているということでしょうか。
今日の聖書箇所から教えられることは、主のみことばに留まるなら、幸せな人生があり、主のみことばを離れて人間中心主義の生き方に埋没するなら、結局、不平不満の人生を迎えることになるのです。節目、節目に私たちの生き方を点検し、もし、主のみことばから離れているなら、早く、軌道修正することです。それは、他人のためではなく、自分自身のためになることです。
清宣教師