21章は、全体的には、悪者や正しい者について述べられています。1節では、「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。」と記されており、用水路の流れが例えとして引用されています。仙台では「四ツ谷用水(よつやようすい)」が有名ですが、これは江戸時代に伊達政宗により開削されたもので、広瀬川の上流で取水され、仙台城の城下町をくまなく流れ、生活用水や灌漑用水、排水に用いられたことが知られています。為政者は、用水路などを造り、水の流れを自由に変えることが出来ますが、創造主なる神は、それらの為政者の心を、あたかも水の流れのように自由に変えることが出来る、と宣言しています。ですから、私たちは創造主に向かって、為政者が正しい政治を行うように、祈ることが勧められています(テモテへの手紙、第1、2章1節)。3節では、正義と公儀を行うことが、主によって喜ばれることであることが強調されています。これは、第1サムエル記15章22節で、「聞き従うことは、いけにえにまさり」と記されているとおりです。4節では、「高ぶる目とおごる心」という表現で、為政者の富や権力への飽くなき欲望こそ、罪であることが指摘されています。6節~12節では、悪のさまざまな様相について述べています。後半の29節では「悪者は厚かましく、正しいものは自分の道をわきまえる」と記されています。「厚かましく」とは、心を頑なにして、人の忠告を聞かず、神のことばをも無視するような性質であり、これは悪者の特徴です。一方、正しいものは、人の忠告に耳を傾け、神のことばに耳を傾ける、心砕かれた人、素直な人を意味しています。
今日の聖書箇所から教えられることは、30節と31節、人間の知恵がいかに優れていても、創造主なる神、全地全能なる神の知恵には決してかなわないこと、すべては神の御手の中にあること、人は戦いのために馬(武力)に頼るが、救いは神の御手に拠ることを改めて示しています。今日も目の前の出来事に目を奪われることなく、私たちの救い主イエス・キリストのみこころに心を留めて、その実現のために祈りましょう。
清宣教師