3章1節―8節は、すべてのことに時があり、神の定めの時があることを述べています。4節の「嘆く」とは葬儀の時のこと、「踊る」とは結婚式のこと、5節の「石を投げ捨てる」とは、敵の畑に石を投げ込んで役に立たないものにすること、「石を集める」とは、荒れ地を開墾して畑にすること、7節の「衣を引き裂く」とは深い悲しみ、「縫い合わせる」とは深い悲しみが過ぎ去ったこと、を表します。ここでは「時」ということばが29回使われています。
9節―15節では、すべては神の手の中にあるのだから、今を楽しく生きる以外にないという、昨日からの流れです。永遠を考える時、そこに常に死の問題が横たわっています。永遠を考える時、人はその死の問題のゆえに不安を覚えるのです。そこで、現実的な処世訓、いまを喜び楽しむ以外ないという結論になるのです(12節)。
16節―22節は、正しい者も悪い者も、動物たちもみな同じ結末、つまり、死を迎える。21節、獣の霊は地の下へ、しかし、人の霊は上に昇ると教えられているが、だれもハッキリとみたものはない。将来のことは誰にもわからない。だから、「今を楽しむ以外ない」という中庸の人生しかないという結論に達するのです。
今日の聖書箇所から教えられることは、神抜きの人生には、生きる意味も平安も見いだせない、ということです。真の解決は、キリストとの出会いまで隠されているのです。神のなさることは、すべて時にかなって美しいのです(3章11節)。
ところで、今から107年前の4月29日、多目的ジッパー(ファスナー)の特許登録がスウェーデンのギデオン・サドバックによってなされました。ジッパーの最初の用例は雪靴でした。実際のところ、ジッパー構造は、最初に創造主によって使用されていました。すべての生物の遺伝情報の源であるDNAは、その分子構造がちょうど、2本鎖のジッパー構造になっており、ジッパーを開いて複製したり、情報をコピーする構造となっています。今日では多くの製品が、創造主の作品に秘められているデザインを利用して造られています。
清宣教師