6章の全体の流れですが、きょうも、「日の下」(1節)で始まり、「日の下」(12節)で終わります。古来、ユダヤでは、この世(日の下)において幸福な人生(祝福された人生)とは、第1に、「富と財宝と誉れ」(2節)を受けることでした。第2に、「多くの子どもたち」(3節)を受けること、そして、第3に、「長寿」(6節)を受けることと言われてきました。しかし、自分の口(内側の欲望)は飽くことを知らないのです。満足することが出来ないのです(7節)。日の下で「富と財宝と誉れ、多くの子ども、長寿」を得たとしても、結局、みな死んでしまうのだから、空しい(12節)。結局、死という問題が解決されなければ、すべては空しい、という虚無的な結論に行きついてしまうのです。日の下で、自分の幸せ、自分の平安だけを求めても、そこには空しさしか得られないのです。
今日の聖書箇所から教えられることは、日の下(神を無視した世界)には解決がないことです。しかし、クリスチャンには解決があります。全能なる神が、墓の向こう、永遠の御座から「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語ってくださっておられるのです。私たちには、永遠の御国が用意されています。そこは、死も、悲しも、涙も、そしていかなる罪も存在しない世界です。愛と喜びと平安にみちた世界です。ここに全き解決があります。
ところで、今から220年前、1800年の今日、5月2日は英国の科学者ウィリアム・ニコルソンが、化学物質を用いた初期の電池を組み立てた日でした。これは懐中電灯用の乾電池が考案されるずっと以前のことでした。ニコルソンは、手造りの電池から流れる電流を水に通して、気泡が形成されるのを見ました。それは酸素と水素ガスであることが分かりました。こうして、水は酸素と水素の化合物であることが実験で確かめられました。その後も科学は発展し、人類はいろいろな科学技術の成果にあずかって生活しています。この世界は進化論が主張するような偶然の積み重ねで出来たのではなく、人類があらゆる科学技術を利用できるように、創造主が、あらかじめ様々なデザインを用いて造ってくださったものなのです。
清宣教師