さて、8章は、強い疑問文から始まります。ヘブル語では最大級の疑問形を使っています。?マークが、いくつもつくような感じです。「だれが知恵のある者にふさわしいだろう。だれが事物の意義を知りえよう???」。ここで、「事物」と訳したことばは、ダニエル書では、「夢の解き明かし」と訳されています。つまり、人生の途上で起こる、もろもろの出来事を解き明かし出来る人がいるだろうかということです。その答えは、8章の末尾、17節に記されています。「結局、日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。」と結論付けられています。
2節―5節では、この世の最高の権威者である王のことが記されています。6節以降、神から地上での権威を授かっている王でさえも、止めることが出来ないものとして、「風、死、戦い、悪」の4つを挙げています(8節)。10節―15節では、さまざまな矛盾をとりあげています。矛盾だらけの中で、快楽しか楽しみがない。しかし、それも空しい。結局、神から与えられているものに満足して、楽しむ以外ないという結論に到達します。1章から8章まで、何度も繰り返して求めた答えの結論です。「この地上では、神から与えられたもので満足し、楽しむことである」。しかし、これはあくまでも、「日の下」での結論、神という名前が登場しても、それは、あくまでも「日の下」での神のことです。1章で提起された課題である、人生で真に益(価値、意味)のあることは何かということが、2章から8章まで、展開されてきました。事業か、名誉か、財産か、知恵か、快楽か、しかし、どんなに頑張っても、みな同じ結末、死を迎える。それでは何の益があるのか?ある問題を解き明かそうとして、求めて、求めて、死という壁にぶつかる。今度は、別の道から探求を始める。しかし、求めて、求めて、死という壁にぶつかる。どうしても、解決が得られない。日の下での、もろもろの道を尋ね求めるが、行き止まりの道ばかりである。
今日の聖書箇所から教えられることは、求道者は、12章の1節、日の下ではなく、この世のすべてを造られた、創造主に出会うことがない限り、真の解決はないということ、キリストこそ、「唯一のまことの道」です。私たちには、天の父のみこころを実現するという尊い使命が与えられています。主を愛し、隣人を愛して生きる事、共に集い、共に礼拝し、神の家族として生きることです。清宣教師