さて、伝道者の書9章ですが、今日の個所もあくまでも「日の下」での出来事であって、「日の下」での人生の解釈です。
1節~3節では、すべてのことは神の御手のなかにあります。しかし、人には分らないことがあります(1節)。それでも、ただひとつ確かなことがあります。それは、すべての人に同じ結末(つまり死)が来るということです。善人も悪人もみな、同じように平等に死にます。何をしても、どのように生きたとしても、その結末が死であるとすれば、このことは日の下で行われることの中で最悪だといえるのではないでしょうか。正義と公平はどこにあるのでしょうか(3節)。
ところで、「生」と「死」を比較すれば、私は「生」を選びます、と著者は語ります。生きている犬は死んだ獅子に優っているからです(4節)。ともかくも生きていれば希望があるからです(4節)。だから、この空しい一生の間、ともかくも生きて、愛する妻との日々の生活を楽しみ、なすべき仕事をして楽しむ以外に解決はないのではないでしょうか(5節-10節)。このあとの9章11節~10章20節は、「知恵」と「愚かさ」をテーマにした種々の箴言がまとめられています。すべては時の運が支配しているように見えます(11節、12節)。知恵を持っていても、貧しい者の知恵は蔑まれて、忘れられてしまうのです(13節―16節)。しかし、ひとりの知恵によって町が救われるように、知恵は武器に優るものです。逆に、一人の愚かさによって町が亡びることもあります(17節、18節)。
今日の聖書箇所から教えられることは、やはり、日の下の哲学や知識がどんなに進歩しても、さらにはAI(人工知能)の時代がやってくるとしても、その結論は、「空の空」しかないのです。創造主を知ることこそ、自分の生の意味や目的を知る唯一の道です。ところで、安価で買い求めやすい「もやし」のことですが、よく「もやっし子」といって「ひ弱さ」の代表として取り上げられることがあります。それは白くて、ヒョロヒョロのびている姿からそのように言われているのですが、これは「ひ弱さ」の象徴ではなく、「たくましさ」の象徴です。なぜなら、植物は生きるために、光を求めて必死に伸びている姿ですから、たくましさの象徴といえます。ものごとは、いろいろな面から理解する必要があります。
清宣教師