さて、11章のはじめ、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと、のちの日になって、あなたはそれを見出そう」とはじまります。これは、いくつかの解釈があります。文字通りには「水」は池とか湖を思い浮かべます。そこにパンを投げたら沈んでいく。そこに鯉がいたらパクパク食べるでしょうね。あるいは、パンをめがけて、多くの鯉が寄ってくることでしょう。無駄に見えても、あとから結果が伴います。第2の解釈は、ユダヤ人は、「パン」は「愛のわざ」「善い行い」と考えます。パンはいのちの糧であり、貧しい人に分かち合うなら、一見空しいことのように見えるかも知れませんが、あとで、その報いが自分に返ってくる。第3の解釈は、ソロモンの時代の貿易商の間で交わされていた諺として理解するもので、「パン」は「穀物」、「水の上」とは「船」のことと解釈します。穀物を船に積んで貿易をすること、一見、無駄に見えても、大胆に投資するとき、あとで、莫大な利益となって返ってくる、と解釈します。みなさんは、どの解釈をとりますか? 自分のために生きるのではなく、無駄に見えても、他人のために生きる時、必ず、それは益となって自分の人生に返ってくることを言っているようです。これまで、伝道者(求道者)は、いろんなことをしては、空しい、結局、人は死ぬのだから空しいと連発してきましたが、今回は、逆バージョン、空しいと思われることをしてみた。水の上にパンをなげるような空しいと思われることが、実は、益となってくることの不思議を発見したのです。2節は危険分散、3節―4節は、あれこれ考えて実行しなければ、種を蒔かないのと同じで収穫はない。だから、ともかくも、種を蒔け、実行してみよとの勧めです。5節は、風の道と訳していますが、欄外中にあるように、「霊」と訳して、胎児の中に、霊が宿る不思議と解釈することも出来ます。人にはわからないことがたくさんある。6節、人にはわからないことがあるのは当然。天候も正確には分らない。だからこそ、朝にも、夕にも、種をまくこと。7節―9節は、若いうちに、いろいろ、やってみること、ただ、良い種を蒔くように心がける事、悪い種を蒔くなら、悪い結果を刈り取ることになるから。10節は、心に喜びを与え、肉体に益を与える喜びを見出して、青春を生きるべきである。
今日の聖書箇所から教えられることですが、使徒パウロは、クリスチャン人生の指針として、「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、賞賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」(ピリピ4章8節)と述べています。ところで、話は変わりますが、1951年、千葉県検見川の弥生時代の遺跡から,3粒のハスの種子が発掘されました。それらの種子は、発芽し、その中の一本の芽生えが成長し、花を咲かせました。このハスはそれを栽培した大賀一郎博士の名にちなんで「大賀ハス」となずけられました。1954年には千葉県の天然記念物に指定されました。このように、約2000年の歳月を経て実を結ぶこともあるのです。まさに、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと、のちの日になって、あなたはそれを見出そう」というみことばを思い出させる出来事ですね。清宣教師