今日からイザヤ書1章に入りました。序論でも述べましたが、イザヤ書は神の救いの御計画に関して記している、とても重要な書です。
1章1節はイザヤが生きていた時代を示しています。ウジヤ王(紀元前792-740年)、ヨタム王(紀元前750-732年)、アハズ王(紀元前743年―716年)、ヒゼキヤ王(紀元前729年―687年)の時代に見た幻を記しています。イザヤは幻という形で神様からの啓示を受けました。幻と夢は良く似ていますが、夢は眠っている時に見るものですが、幻は起きている時に見るものです。2節:創造主なる神は、民をご自分の子たちとして育てて下さった。3節:しかし、本来、神ご自身の民であるものたちは、背を向けている。4節:罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら、と呼んでいる。神の悲しみはいかばかりか。5節―7節:どこまでも腐りきっている民の姿。8節:しかし、残りの民が、神様の恵みによって残された。9節:神のあわれみにより、残りの民[レムナント]が残された。10節:指導者だけでなく、民もソドムやゴモラのように裁きを受ける者たちとなってしまった。11節-15節:いけにえ、集会、安息日などの律法による儀式について、「飽きた」、「喜ばない」、「携えてくるな」、「忌み嫌うもの」、「耐えられない」、「憎む」、などの表現により受け入れられないことを示している。また、「どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない」(15節)と宣言されている。16節―18節:悪を取り除け、みなしご、やもめ、を大切にするという「悔い改めの実」を結ばなければ、祈りは聞かれないことを明確にされた。19節-20節:喜んで聞くように、しかし、聞かなければ裁きがなされる。21節―23節:金も銀も価値がなくなる。24節-26節:必ず裁きがなされる。しかし、その裁きの中に希望がある。なぜなら、裁きを通じて、回復がなされるからである。27節:裁きの前に祝福の宣言がなされる。28節―31節:どんなに強い樫の木(偶像礼拝)も、園(偶像礼拝の場)も、裁きを受けて、涸びてしまう。
今日の聖書箇所から教えられることは、「主の誠実」と「民の背信」が際立っています。それにもかかわらず、主は背信の民を見捨てることなく、預言者を遣わして、語りかけて下さるのです。私たち日本の国も、創造主に立ち返ることを祈り求めます。清宣教師