昨日の1章は、内容的にはとても深刻で重い課題を扱っていました。ユダという国家の不信仰、不忠実に対する叱責でした。今日のイザヤ2章2節―4節は、ミカ書4章1節―3節と、ほぼ同じ内容です。じつは、預言者イザヤと預言者ミカは同時代の人でした。しかし、どちらかが引用した可能性は否定できませんが、両者とも、引用とは言っていません。終わりの日の預言はとくに二人または三人で吟味する必要があると言われています。主は、二人を立てて、それぞれに同じメッセージをさせることにより、この御言葉が確かに主から出たことばであることを表されたと考えるのがベストであると思われます。
さて、「終わりの日」という表現ですが、旧約の預言者が、「終わりの日」という場合、3つの内容が含まれます。①エルサレムの滅亡の日、②旧約時代の終わりの日、③世界の終り、の3つです。今日のイザヤ書2章では、③の世界の終りの意味で用いています。3節:福音はエルサレムに始まります。そして、全世界に述べ伝えられます。4節:最終的な判決がなされ、もはや戦いはなく、絶対的な平和が訪れます。5節:現実の中での呼びかけです。主の光の中を歩もう。6節-9節:「外国人の子らと手を打つ」とも訳すことができます。この場合、外国人と売買契約を結ぶこと、あるいは、同盟を結ぶことを意味します。東方(バビロン、アラム)からの魔術など、満ち、満ちている、溢れている、数限りないなどという表現を用いて、経済的に豊かに満ち溢れている状況を描写しています。経済的だけでなく、軍事力も増強された。しかし、偽りの神々、偶像で満ちている。結局、人は持ち物によって自分が支配されることになる。1億円もてば、1億円に支配される。憎しみをもてば、憎しみに支配される。人は、何かをもつ、所有するというが、実際には、自分の持ち物によって大きな影響を受けるのが現実の姿です。神からのいのちをもてば、それに影響される。良きものを所有するなら良いが、この世のものを豊かにもつことにより、逆に、その悪影響を大きく受けてしまう。そして、人間が低くされる。10節-12節:主おひとりだけが高められる。高ぶる者はみな裁きを受けて低くされる。13節-16節:杉の木、樫の木は高級品である。とくに、レバノン杉、バシャンの樫は、高級ブランドである。タルシシュはスペイン、麗しい船は観光船のこと。しかし、神の裁きの日には、これらのすべては価値のないものとなる。19節:繰り返し、最後の審判が語られる。20節:偶像の無力さ。21節:19節の繰り返し。最後の審判では人々は恐ろしさのため、岩の裂け目、地に穴を掘り、神の目を逃れようとする。22節:結論として、鼻で息をする、被造物である人間に頼ることのむなしさ。人間を造られた創造主こそ、頼りになる方である。
今日の聖書箇所から教えられることは、イザヤの預言は、いまの私たちの社会に対する預言としても、充分、適用することができる内容です。
清宣教師