1節~7節のテーマは、バビロンの屈従です。46章では、バビロンの偶像の無力さを描き出しましたが、ここでは、バビロンの悲惨な没落の様子を描いています。イスラエルの神、主がバビロンに対して裁きを下されるのです。なぜなら、主なる神は、イスラエルを教え導くために、バビロンを用いてイスラエルを懲らしめたのですが、そのバビロンが自信過剰に陥り、高慢になり(7節)、イスラエルを自分勝手にひどい扱いをしたので(6節)、その報いとしてバビロンが滅亡することになるのです。
8節~15節のテーマは、バビロンの自信喪失です。バビロンは隆盛を誇り、強大な政治力により王国に富を増し加え、平和がいつまでも続くと考えていました。いつまでも世界の女王として君臨するものと考え、「私だけは特別だ」と自負し、滅びなどは永久に無縁であると思っていました(7節~8節)。しかし、女王であると思っているバビロンは、1日のうちに、あたかも子を失い、夫を失う者のように、女王の座を失うのです。またたくまに滅びが来るのです(9節)。「私を見る者はない」、「私だけは特別だ」と言い張るのです(10節)。そこで、主は、バビロンが世界に誇る呪文や呪術、占星術、魔術、軍隊などを用いて、「あなたを救ってみよ」(12節、13節)と挑戦します。主の前には、バビロンの宗教も軍事力も、政治力も、すべてが無力であり、バビロンは滅びる以外にないのです(14節、15節)。
今日の聖書箇所から教えられることは、仕事が成功したり、万事順調にものごとがうまくいくと、いつのまにか高慢が芽生え、「自分は特別だ」と錯覚してしまう危険性です。過去の日本がそうでした。「神風」、「神国」などと称していました。しかしまた、クリスチャンも例外ではないと思います。一歩間違えると、とても高慢になり、家族を裁いたり、未信者のひとをみな裁いたりしてしまいます。信仰の創始者であり完成者であるイエス様は、決して高ぶることをせず、十字架の死に至るまで謙遜でした。私たちに求められていることは、御霊の実を結ぶことです。
清宣教師