昨日の52章13節からの続きです。今日の53章1節も、驚きのことばで始まっています。2節で救い主は、「砂漠の地から出る根」に例えられています。水気のない砂漠の地から出る根は、ぎりぎりの生存条件のなかで生きています。カラカラに乾いた根、生きるか死ぬか分らない根のようですが、しかし、それは「主の前に」ある若枝であり、主の守りの中で生きて、使命を全うされるのです。彼には見とれるような姿がなく、輝きもなく、慕うような見栄えもないので、人々は、救い主を敬わず、むしろさげすみ、のけ者にし、誰も、彼を理解する者がいません。そこには人々の妬み、醜さ、ドロドロとした罪があります。それにもかかわらず、メシヤであるイエスは、その醜悪な罪をご自分の身に負われました。彼は痛められ、苦しめられましたが、黙々として、忌み嫌われるべき罪人の仲間となり、十字架の上にかかられました。7節には「口を開かない」と2度も繰り返されています。「口を開かない」という表現の中に、私たちのために黙々として身代わりの刑罰を受けられた救い主の堅い決意と愛を覚えます。救い主イエスは、主のしもべとして、多くの人たちの贖いとしていのちを捧げられました。12節にあるように、メシヤであるイエスはご自分のいのちを神に明け渡して、神に反逆した全人類のために罪の贖いと成し遂げてくださいました。救い主イエス様の御名をほめたたえます。救い主イエス様の御生涯が、数百年も前にイザヤによって預言されていたことは、聖書が確かに神のみことばであることを示すとともに、救い主イエス様のみわざが、父なる神様の御計画の成就であったことを明確に示しています。
今日の聖書箇所から教えられることは、旧約聖書と新約聖書は、ひとつの書物であり、決して分離してはいないことです。聖書はひとつです。旧新約聖書でひとつです。救いのご計画は、創世記に始まり、黙示録で終わります。私たちの信仰の土台である、神のみことばとは、創世記1章から黙示録22章までを意味します。改めて、1日1章の意義を教えられます。約3年3カ月で聖書の全体を学ぶことが出来ます。あせることなく、1日1日、いのちのことばをいただきましょう。毎日、食事をすると、その食べ物(タンパク質、炭水化物、脂肪など)が私たちの体の一部となるように、みことばを食べると、わたしたちのいのちの一部となります。1週間前に何を食べたか覚えていなくても、確実に、1週間前に食べたものが、私たちの体の一部となり、エネルギーとして使われているのです。同じように1週間前に頂いた、みことばを忘れていても、それは確実に、私たちのいのちの一部となり、生きるエネルギーとして使われているのです。
清宣教師