きょうも、希望のメッセージ、祝福の約束です。昨日は、どちらかというと環境、周りの状況の祝福でしたが、今日は、魂の祝福、内面的な祝福です。1節:「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者を癒すために、わたしを遣わされた。囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、・・・・」。この預言は、まさしく、主イエス様の来臨により成就しました。なぜなら、ルカの福音書4章16節―21節において、イエス様ご自身が、ご自分こそ、この油そそがれた者であることを明確に宣言しておられるからです。このイザヤ書61章の預言から約700年後、主イエス様が救い主としてこの地上に来られて、すばらしいみわざを成し遂げてくださいました。感謝します。
さて、4節の「昔の廃墟」とは「エルサレム」のことです。5節の「他国人」とは「異邦人」のことです。6節の「あなたがたは主の祭司と唱えられ」とは出エジプト記19章6節に記されているように、イスラエルの国は祭司の国となるといわれていることの成就です。8節の「わたし」とは、神ご自身のことです。10節の「わたし」とはイザヤ自身のこと、この場合、イザヤは贖われた民の代表として叫んでいます。その祝福は結婚に例えられています。花婿のように、また花嫁のように、美しく装われます。神である主は、すべての国々に、[義]と[賛美]を芽生えさせてくださいます。今日の個所は、終末の預言です。この「世の終り」と言えば、困難、惑わし、偽り、悪の横行する暗闇の時代を連想しますが、しかし、義と聖である神が歴史を支配されておられるので、その暗闇の時代の中にも、[義]と「聖」を貫かれます。
主イエス様は、貧しい者、傷ついた者、囚われ人に近づくために、人間となられて、私たちのところに来てくださいました。旧約時代の人々はそれを預言として聞いて想像するだけでした。しかし、新約時代の私たちはその恩恵にあずかっています。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾って下さるからだ」(10節)。
今日の聖書箇所から教えられることは、どんなに大きなことを主が成し遂げて下さったかを、もう一度、思い出して主を讃美することです。主よ。感謝します。この途方もない祝福を、わたしへの贈り物として受け取ります。大いに楽しみ、大いに喜びます。私の肉のうちにある、すべての不平、不満、つぶやきを、聖霊の炎によって焼き尽くしてください。きょう、主を喜びます。楽しみます。
清宣教師