エレミヤ書は、短い1章の中で、何の説明もなしに話題が転換するので、後を追うのが難しい、と感じることがあります。今日のエレミヤ書16章の個所もそうです。
それでは、最初のところから見ていきます。エレミヤは他の預言者とは異なり、結婚することも、こどもを得て家庭をもつことも禁止されました。預言者の職務は、神のことばを預かって宣言するだけでなく、生き方についても制限をうけることがありました。エレミヤの場合は結婚の禁止でした。預言者ホセアの場合は、姦淫の女(遊女?)と結婚するように命じられ3人の子を与えられました。幸せではなかったようです(ホセア書1章2~9節参照)。預言者イザヤの場合は、女預言者と結婚し、子をもうけて、幸せな家庭生活を過ごしました(イザヤ書8章3節、18節)。預言者エゼキエルは、結婚して、愛する妻を得ましたが、ある時、突然、妻のいのちが取り去られました(エゼキエル書24章16~18節)、そして、妻のために涙を流すことも、声を立てて泣くことも禁じられました。それぞれ、主の御計画により、それぞれの運命を生きなければなりませんでした。それゆえに、天の御国での預言者の報いは大きいのだと思います。さて、エレミヤが結婚することを禁じられたのは、裁きが迫っており、このあと、民たちは、墓に葬られることもなく、野ざらしで死ぬ運命が待っているからです。疫病、飢饉、戦死が襲うからです。そして、エレミヤは葬儀に参加することも、結婚の祝宴に参加することも禁じられました。裁きが、いったん、起こり始めたら、もはや、葬儀も、結婚などもする余裕はなくなるからです。14~15節では、前後の脈絡なしに、イスラエルの民のバビロンからの解放について述べています。バビロンからの捕囚は、最初の出エジプトのときにまさる神のみわざとして、イスラエルの民の中に語り伝えられることになるというのです。16~18節、現実のユダの民に関して、主が厳しい裁きの宣告をされます。南ユダの民が、どんなに逃げ隠れしても、魚を一網打尽にする漁師のように、すべての隠れ場から獲物を追い出し捕える漁師のように、主は、南ユダのものをひとりも逃さず、裁きを行うという宣言です。それは主を求めず、かえって、外国の神々を持ち込み、イスラエルの国を汚した罪があるからです。19~21節:エレミヤは、外国の民は、先祖から受け継いだ偶像が何の役にも立たないものであることに気づき、人間が作ったものは神などではないと気づき、主のもとへ立ち返る日が来るでしょう、と主に申し上げました。そこで、主は、だから、もっとハッキリ、わたしの手と、わたしの力を表し、わたしの名を諸国の民に知らせよう、と言われました。
今日の聖書箇所から教えられることは、主にあって特別の使命を与えられた神の器は、私たちの理解を越えて、主から与えられた過酷な運命を生きることになることがあるということです。例えば、主の御計画の中で与えられる、生まれた時からのハンディ、避けられない事故や病気もあるのだと教えられます。しかし、その人には、必ず、主が天国において、それに倍する報いを与えて下さるのです。
清宣教師