14章のテーマは「聞かれない祈り」です。前半(1節~11節)は、心の中に偶像を秘めながら祈りを依頼する者への回答、後半(12節~23節)は、たとい、ノアやダニエルやヨブのような義人がいても自分自身を贖うことしか出来ない、という内容です。
まず、1節~11節の前半ですが、神の民と言われるユダの民の中には、自分たちの心の中に偶像を秘めながらも、主の前に祈ろうとする人たちがいました。彼らにとって、主を礼拝することは、もろもろの神々(偶像)に、もうひとつの神を加えるようなものと理解していたようです。実際の目に見える偶像をもつことはなかったにしても、心の中に偶像をもっていたのです。しかし、主なる神にとっては、心の中に隠し持っている偶像であっても、人の目には隠すことが出来ても、神の目から隠すことが出来ないことを理解していないのです。ですから、いつまでたっても、偶像礼拝の罪を悔い改めることがなく、主に立ち返ることをしないのです。そのことを主は御存じなので、偶像を心に秘めながら主に祈る者には、決して答えることはしないのです。むしろ、裁きを与えるのです。それによって自分たちの罪に気付いて立ち返ることを願っておられるのです。
12節~23節の後半では、ユダ王国に対する4つの裁きを宣告されました。第1に、飢饉です。第2に荒廃です。第3に殺戮です。第4に疫病です。そして、当時のユダの民にとって、信仰の義人として知られていた代表的な人物を、主は取り上げて、たといノアとダニエルとヨブのような信仰者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを贖うことしかできないこと、自分の息子や娘であろうと、自分たちの義によって息子や娘たちを贖うことは出来ないと、主は宣言されました。一方で、エルサレムに裁きがくだされるとき、逃れて生き残る者があることも予告されています。彼らがバビロンにつれて来られる時、彼らのあまりにもひどい悪行をみて、すでに捕囚の民となっていた民たちは、エルサレムに対する主の裁きが正しかったことを改めて知ることが出来るためでした。こうして、バビロンに捕囚となっていたユダの民たちは、主なる神の悲しみを部分的にではあっても理解する者となるのです。主のさばきは正しいということを改めて知る機会となるのです。
主は、理由なく、神の民を苦しめることは決してなさいません。そこには、必ず、理由があります。その理由とは、神の民を正しい道へと導くということです。主にお委ねします。
清宣教師