さあ、ハバクク書に入りました。ハバククは、預言者であり(1節)祈りの人であり、信仰の人でした(2章4節)。時代的には、南ユダがバビロンによって滅ぼされる直前の時代、エレミヤが活躍していた時代と考えられています。2節―4節:ハバククは「いつまで聞いてくださらないのですか」と主に訴えています。暴行、暴虐、闘争、争いに満ちているユダ王国のために、ハバククは祈り続けてきました。しかし、南ユダの民は、耳を傾けないのです。なぜ、この事態を、主は、見過ごしにされるのでしょうか? 「律法は眠り、裁きはいつまでも行われません。」どうしてですか? 5節―11節が、神の答えです。「見なさい。見なさい。」「驚きなさい。驚きなさい。」との2度の繰り返しの形で強調しています。「カルデヤ人を起こす」という主のみわざを見なさい、ということです。この民は「強暴で激しい国民です」。その軍事的な強さも抜群です。それを動物で例えています。馬は、当時の軍事力の代表です。その馬の速さは、豹よりも、狼よりも早く、東の砂漠から来る熱風のようにすべてを枯らす恐ろしい力を備えていることを示しています(7節―10節)。しかし、カルデヤ人もまた、主の御手の中で用いられる、裁きの器にすぎないのに、自分の力で勝利したと豪語し、高ぶり、自分の力を神とするので、必ず、罰することも宣告されています。12節―14節:「主よ、あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか」と主に対して親しく呼びかけています。あなたはカルデヤ人(バビロン人のこと)を立てて裁きに用いられます(12節)。しかし、彼らも暴虐な者たちです。そして、南ユダの人たちは、「海の魚」のように、治める者のない「はう虫」のように、敵のなすがままにされてしまうのでしょうか。15節―17節:カルデヤ人たちは、釣り針、網、引網とあらゆる手段で漁をする漁師に例えられています。そして、その漁師は、すべてがうまくいき、大漁の喜びに満たされるように、バビロン人たちの侵略はことごとく成功し、国々を征服し、それに味をしめて、容赦なく、諸国の民を殺しています。いつまで、その力を誇るのでしょうか? 
以上ですが、1節に「預言者ハバククが預言した宣告」と記されていますが、「預言する」はヘブル語で「ハーザー」です。これは、いわゆる夢とか幻のことではなく神の啓示を受けるという意味です。特に預言者に与えられた全能の神のさばきの使信を表す言葉です。預言者にとって、神の裁きを語ることは、とても、重いことです。私たちも創造主の存在と創造主の御業について語りますが、人々の心は固く、なかなか受け入れられません。救いの福音もそうです。2節の叫びは、私たちの叫びでもあります。「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聴いてくださらないのですか」。しかし、ハバククは、祈りの人でした。1章2節、2章1節、3章1節を読むと分ります。祈りの使命を自覚して祈ることは大切です。私たちも、執り成しの祈りの重荷を託されています。それは重荷です。大きな仕事です。主は、それを私たちに委ねてくださいました。主が、私たちひとりひとりに、祈りの霊を注いでくださいますように。
清宣教師