バビロンから帰還したユダヤ人たちは、この地上では、周囲の異邦人たちの妨害や、民の指導者たちの無能力から来る大きな困難に直面していました。大祭司ヨシュアは汚れた服をまとい、総督ゼルバベルも打つ手がなく、ただ、神殿建設の手を休めて15年もの歳月が過ぎていました。民たちは、このような状況の中で次第に、大祭司ヨシュアや総督ゼルバベルに対する信頼を失いかけていました。こうして、民たちはますます、この世の生活にのめりこんでいきました。しかし、天において、3章のように、変化がありました。そこでは日夜、聖徒を訴えるサタンの訴えがありましたが、大祭司ヨシュアに対する訴えが退けられて、ヨシュアが大祭司として、再び、主の前に立つことが許されました。天においては、ヨシュアは、大祭司としてお披露目されていたのです。そのような時、ゼカリヤは眠りから覚まされたのです(4章1節)。そして、ゼカリヤは金の燭台の幻を見せられました。それは二本のオリーブの木の油によって、油を補給されている金の燭台でした。おのおのの灯火には7つの管がついていました。全部で49本の管でした。両側のオリーブの木から油が間断なく供給されていました。この金の燭台とはイスラエルの民のことを指していると思われます。同時に、現代のクリスチャンをも表していると思われます。この二本のオリーブの木については、いくつかの解釈があります。まずは、神の前に、新たに油注がれた大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルという解釈があります。神の前には、この油注がれた二人が、神殿再建を成し遂げるという神の計画を示していると思われます。そして、この働きは、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(6節)と示されている通り、主が成し遂げて下さるのです。『大いなる山よ。お前は何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ』(7節)と主が宣言されました。神殿再建のために立ちはだかる大きな困難の山です。しかし、主はそれを平地となれと命じられました。そうです。ですから、この問題は必ず解決され、遂には神殿が完成するのです。最後に、この2本のオリーブの木が二人の油注がれた者であることを説き明かしています。あるひとは、この二人を旧約聖書と新約聖書であると解釈している人もいます。
さて、今日の聖書個所から教えられることですが、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」という6節の聖句を適用すると、楽しいです。70歳を超えると体力も気力も衰えてきます。しかし、そのようなとき、「体力に拠らず、年齢に拠らず、わたしの霊によって」と自分に言い聞かせるのです。いま、いろいろなハンディを負っている方も、この聖句を適用して、自分にあてはめるなら、「○○によらず、□□によらず、わたしの霊によって」という神の語りかけを聞くに違いありません。それから、「大いなる山よ。お前は何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ」ということばです。今、自分の前にある大きな困難に向かって、ゼルバベルの名前の代わりに、ご自分の名前をいれて宣言してみてください。主は天と地を海と水の源を創造されたお方です。そして、あなたのために、ご自分のいのちの代価を持って、あなたを贖われた方です。
主はあなたと共におられます!