ゼカリヤという名前は、聖書の中でも何度か登場します。ヘブル語の意味は「主が覚えて下さっている者」というものです。息子の誕生を願い求めた両親が「主が祈りに応えて下さった」という感謝の気持ちで命名したものと思われます。ゼカリヤはイドの子と呼ばれています(1章1節)が、実際にはイドの孫になります。父親が早くなくなり、ゼカリヤが祭司だった祖父イドの後を継いだようです。前にも述べましたが、ゼカリヤとハガイの二人の預言者は、一緒になって、神殿再建にあたっている総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを励ましていました(エズラ記5章1節、2節、6章14節)。ゼカリヤ書は大別すると、二つの部分に分けることが出来ます。1章から8章までの前半は、神殿再建中にゼカリヤに臨んだ主からのメッセージです。9章から12章までの後半は神殿完成後にゼカリヤに臨んだ主からのメッセージです。
1章1節から、ダリヨス王の治世の第2年の8月(紀元前520年11月)に、ゼカリヤに最初の主のことばが臨んだことが分ります。そのとき、ゼカリヤは青年であったと推測されます。数十年のバビロン捕囚から解放されてエルサレムの地に戻った民たちでしたが、最初にしたことは、モーセの律法に従い、暫定的な祭壇を築いて、新しい神殿の土台を据えることでした(エズラ書3章2,3,8-11節参照)。しかし、その地に住んでいた混血のユダヤ人たちの妬みを買い、15年間も工事を中断させられました。その間に、あきらめや妥協などの心が生じ、商売をし、財を貯え、自分達の家を建て、いつしか、自己満足の中に陥っていました。その民に対して、ゼカリヤは主のことばをもって語りました。1章1節~6節の悔い改めへの呼びかけです。それから、7節―17節において、主から与えられた幻が記録されています。第1の幻は、先の主のことばが臨んでから3カ月後のことでした。民たちが、先の主のことばによって主に立ち返ったことを受けて、主は幻をもって慰めて下さったのです。ユダヤ人にとってミルトスの木は祝福の木でした。谷底は「試練の中にある民」を表しています。御使いの報告によると、全地は安からで穏やかでした。それは物質的な繁栄を求め、主を求めない意味での諸国の姿でした。そして、ゼカリヤは、「万軍の主よ。いつまであなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、70年になります」とエルサレムとユダの町々のために、主に尋ね求めていのりました。それに対して、主は「良いことば、慰めのことば」で答えられました。「良いことば」とは、まさに、福音のことです。主はエルサレムを妬むほどに愛されていること、一方、諸国に対しては裁きをなすことの宣告でした。さらに、エルサレムの神殿の再建とエルサレムの祝福を約束する、主のみことばが語られました(1章16節、17節)。
18節~21節では、4つの角、つまり、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマと解釈されています。あるいは、イスラエルを四方から攻めてくる敵を表すとも考えられます。そこに4人の職人が登場します。彼らは、その角を切る為に遣わされたものたちです。主は、4つの角を裁かれます。
私たちが、試練という暗い谷底にある時にも、主はその谷底の真ん中におられます。御使いたちもいます。あなたひとりではなく、主と御使いがともにおられます。そして、その暗い谷底から、明るいところへと導いてくださり、再び、よいもので満たしてくださいます。試練のときには、主が私に何を教えようとされているのか、考えることが大切です。主は、取り成してくださり、私たちにその意味を教えて下さいます。
主はあなたと共におられます!