最初の幻が与えられてからほぼ2年の歳月が過ぎました。そして、いま、ダリヨス王の第4年の第9の月となっております。キスレウは、バビロン暦によるものです。神殿の完成はあと2年後に迫っていました。再建工事はつつがなく進んでいました。7章と8章のメッセージはこのような時に語られたものです。
べテルは、エルサレムの北19キロメートルのところにある、かつての北王国のイスラエルの礼拝の中心でした。人々の信仰は折衷主義的なものでした。べテルの長老たちは、ここに名前が記されている人たちを遣わして、これまで守ってきた第5月の断食を守り続けるべきかどうかという質問を、主の祭司と預言者にしたのです。その理由ですが、そもそも、第5月の断食とは、およそ70年前に南ユダの首都であるエルサレムの町がバビロン王の侍従長ネブザルアダンによって占領されて、王宮や神殿が焼き払われたことを悲しんでの断食でした。いまや、エルサレムの神殿の完成が目前に迫っており、それでも、断食を続けるべきかどうかという質問でした。捕囚から帰った人たちは、この断食を堅く守っていました。もっともな質問でした。しかし、主はそれに対する直接的な答えではなく、別の視点からお答えになりました。それは、今まで断食をしてきたけれども、それは本当にエルサレムの王宮や神殿の焼失を通して示された神の裁きを誠実に受け留めての悔い改めの断食であったかという問いかけでした。むしろ、「自分たちのため」(6節)ではなかったか、と祭司や民たちに対して指摘しました。民たちは断食という外面的なことは守っているけれども、その本質である神のみこころを行うということを忘れて自分勝手な生き方をしている。本当の断食というのは、正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、憐みあい、やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者たちをしいたげない生き方をすることである、と指摘しました。そのようなことが繰り返し語られてきたのに、先祖たちは耳をふさぎ、これを聞こうとせず、悔い改めることをせず、結局、神の裁きをうけて、バビロン捕囚となり、国々に散らされてしまったではないか、そのことを思いだして、2度と同じ過ちを繰り返してはいけない。せっかく、捕囚の地から帰還したのだから、先祖たちのように頑なな者になってはいけない、ゼカリヤは民たちに嘆願しているのです。
今日の個所では、いつのまにか、自分たちの満足のために主日礼拝を守ったり、月定献金を捧げたりしてはいないか、と問いかけています。主ご自身を礼拝し、主ご自身に祈る、主ご自身に捧げるという原点を忘れていないかと問いかけています。 
主はあなたと共におられます!