13章では、まず、種蒔きの例え(1節~23節)が語られています。当時のイスラエルでは、今の栽培方法とは異なり、まず、種をばら蒔いて、それから土を耕したようです。ですから、種は、道端におちているもの、土の薄い岩地におちているもの、いばらの中に落ちているものがあり、ただ良い畑に落ちたものだけが豊かな実を結んだのでした。それで、イエス様は、この4つの状態に播かれた種の生育を比較しています。そして、その例え話を、イエス様みずから解き明かして下さっています。まず、種とは御国のことば(福音)のことであり、畑とは聴衆の心の状態の事である、と言われました。福音に無関心なひとの心に蒔かれた福音は、道端に蒔かれた種のように、鳥(サタン)が来て奪っていくのです。薄い岩地に蒔かれた福音は、みことばを聞いてすぐに心に受け入れるのですが、困難や迫害がくると、すぐに、信仰を捨ててしまう人のことです。いばらに蒔かれた種は、心の中に富や欲望の種が成長していて、結局、福音の種が成長することが妨げられる人のことです。最後の良い畑とは、福音を聞いて信じて、深く理解し、みことばに従って生活する人のことです。この人は、人生の中で豊かな実を結びます。なお、イエス様がたとえで語られた理由は、弟子たちには、天の御国の奥義を知ることが許されていますが、一般の聴衆には、奥義を明らかに解き明かすことが許されていないので、例えで語られたのです。聴衆の中で、心から求める者だけが、神のみこころを悟るようにされたのです。
次に「毒麦のたとえ」(24節~30節、36節~43節)です。ある人が麦の種をまいたのですが、敵意を抱くものたちがやってきて、「毒麦」を蒔いて行ったのです。そこで、主人のしもべたちが、毒麦を抜き集める提案をしました。しかし、主人は、麦と毒麦が外見上似ているので、間違うといけないので収穫の時期まで待つように命じました。日本では、田んぼの稲のなかに雑草の稗(ひえ)が混じっていると、良く似ていて判別するのがとても難しいです。しかし、穂が出るころになると、稗の穂と稲の穂ではまったく形が異なるので、こどもたちでも判別できます。同様に、いま、この世では良い者も、悪い者も、野放しにされているように見えるかも知れませんが、それはやがて、良い実を結ぶか、悪い実を結ぶか、明確に判別できるようになるので、神の審判は遅れているように見えても、必ず、正しい審判がなされるのです。
次に、その他のたとえです(31節~35節、44節~52節)。まず、カラシ種は、最も小さい種なのに成長すると大きな木のようになります。また、わずか一握りのパン種でも、3サトン(39リットル)の粉を膨らませる力をもっています。このように御国も、12人の使徒たちによる、わずかな種蒔き(宣教)から、全世界への宣教へと大きく成長するのです。また、天の御国は、隠された宝のように、あるいは真珠のように、とても高い値打ちがあるので、その価値を分る者は、すべてを売り払ってでも手に入れようとするのです。神の奥義を得たものたちは、天国の学者と呼ばれるにふさわしいものです。なぜなら、当時の律法学者たちとは異なり、表面上の文字の解釈だけでなく、その深い奥義をも体得しているのです。ですから、古いものも、新しいものも、自由に取り出すことのできる真の学者なのです。
最後に、イエス様の郷里であるナザレの人たちは、あまりにも、自分たちの知識と経験に頼りすぎて、神の御子であるイエス様のことを受け入れることをしませんでした。その結果、イエス様は多くの奇蹟をすることが出来ませんでした(53節~58節)。それは、彼らの不信仰によるものでした。
主は、あなたのために全てのことを働かせて益としてくださいます!