しかし、1タラント預かった者は、土の中に隠しておきました。しかも「主人が過酷な要求をするひどい方だと分っていたので、こわくなってしたのです」という言い訳をしました。しかし、この例え話の最初に、「主人はおのおのその能力に応じて、預けられた」と言われていることに注意してください。1タラントのものも、1タラントを儲ける能力があったので、主人は1タラントをあずけたのです。しかし、1タラントを預けられたしもべは、土のなかに隠すという最も安易な方法を選び、あとは自分勝手な生活をしていたのです。2タラントや5タラントを預けられた者たちは、一所懸命、主人の財産を増やすために生活していたのです。この例え話は、私たちの人生のことです。私たちはそれぞれ、神様からの賜物を与えられてこの世に生れます。そして、それぞれの人生を送ります。それぞれには、神様からの賜物が必ず、与えられています。私たちは、なにも賜物がありません、とは言えないのです。主が私たちに委ねられた賜物(タラント)は、私たちの人生において使うために与えられているのです。そして、それを使うことによって増やすことが出来るのです。これは、まさに、私たち一人一人が、きょう、主から問われていることです。
第3に、31節―46節は、終わりのさばきのときのことが記されています。羊と山羊の例え話です。人の子(イエス様)が栄光を帯びて、すべての人が御前に集められます。そして、審判のときがきます。ご自分の右には羊たち、左には山羊たちです。羊と山羊とは似ていますが、ここでは、それが分けられます。旧約の時代から、神様は、イスラエルの人たちに対して、やもめ、みなしご、在留異国人には配慮するように命じられていますが、ここでは、空腹で飢え渇いている者たち、旅人、病気の者、牢獄にいれられている者たちへの態度が問われています。羊と呼ばれている人たちは、これらの人々に親切にしました。しかし山羊と呼ばれている人たちは、これらの人たちに無関心でした。イエス様は、こららの最も小さな人たちにしたことは、「わたし」にしたのであると言われました。イエス様への愛は、具体的には、最も小さい人への愛として表現されるというのです。羊の人たちは永遠のいのちにはいるという宣告を受けましたが、山羊の人たちは永遠の刑罰にはいるという宣告を受けました。現代で言えば、イエス様が言われた最も小さい者といわれた人たちの中に、難民やホームレスの人たちが含まれていると思われます。ここでは私たちに信仰の実践の大切さを教えておられます。
主は、あなたのために全てのことを働かせて益としてくださいます!