インタビューする側としては、イエスかノーで答えて欲しいと追求しましたが、これはある意味、パリサイ人がイエス様を罠にかけようとして質問した時の状況と似ています。単純に、イエスかノーで答えさせて、その結果をもとに、「世に迎合した牧師」とか「人権を否定した牧師」とかいうレッテルを貼って葬り去ろうという魂胆があります。その牧師は、どのように答えるか、慎重に答えを選んでいました。いずれにせよ、実際の牧会においてLGBTの人たちのために働いている牧師には強みがあります。なぜなら、具体的な神様の生ける働きをみているからです。証しは、言葉を超えて、大きな影響を与えます。LGBTの方でイエス様に出会った人が、救われて、新しく歩む姿こそ、神様の栄光を表すものです。そのような働きをしている教会のために、祈りましょう。
次に、昨日の個所にもありましたが、天国に入るにふさわしいものは、こどもたちのように、自分を低くするものです。こどもたちは、何か業績があるわけではなく、何も資格をもっていません。金持ちの青年(国会議員であったか、貴族であったか、地位も名誉も財産も持っていた人です)が来て、イエス様に対して、「永遠のいのちを得るには、私は何をしたらよいのでしょうか?」と尋ねました(10章17節。私は何をしたらよいのでしょうか?という視点です。イエス様は、この青年をいつくしんで言われました。「かけたことがひとつあります。持ち物をみな売り払い、貧しい人に与えなさい」。青年は、自分は85点、あるいは、90点であると思っていたのかも知れません。戒めも小さなころから完全に守っています。あと何が欠けているのでしょうか?イエス様は、ひとつだけ欠けたところがあると言われました。そのイエス様のアドバイスに対して、青年は、アドバイスを受け入れることなく、顔を曇らせてその場を立ち去りました。ある意味、0点の答案を出して去って行ったのです。天国は、こどもたちのように、何の資格もないものが、恵みによって入るところです。もし金持ちの青年のように、私は何をしたらよいのですかという視点で考えるなら、永遠のいのちを得るためには、永遠に100点満点を取りつづけなければなりません。1回でも、99点をとったら、それで、永遠のいのちを手放すことになります。この青年が0点の答案を出して去った事は、この青年の人生にとって初体験のことだったと思います。しかし、自分は0点で、資格がないというところから、すべてが出発します。この青年のその後のことは記されていませんが、この時点で、初めて、永遠のいのちを得るための求道の人生が始まったと思います。ここで、初めて自分を知ったと思います。85点、いや90点、いや99点の人生だと思っていたかも知れませんが、0点を体験することにより、初めて、子供たちのように謙遜に、恵みを求めるスタートラインに立ったのです。きょうも、父なる神様のみこころに焦点をあてて、謙遜に考えてみましょう。
主は、あなたのために全てのことを働かせて益としてくださいます!